(13)  「開目抄」

【 日蓮の最澄像 】

文永9(1272)2月、佐渡で著した「開目抄」(真蹟曽存)

 

本文

華厳宗と真言宗とは本は権経権宗なり。善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとって自宗の肝心とし、其の上に印と真言とを加へて超過の心ををこす。其の子細をしらぬ学者等は、天竺より大日経に一念三千の法門ありけりとうちをもう。華厳宗は澄観が時、華厳経の心如工画師の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人これをしらず。日本我が朝には華厳等の六宗、天台真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取って自宗の極とする事あらわれをはんぬ。伝教大師宗々の人師の異執をすてゝ専ら経文を前として責めさせ給ひしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人並びに弘法大師等せめをとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。(P541)

 

意訳

華厳宗と真言宗は、本来、権経・権宗である。

真言宗の祖師・善無畏三蔵や金剛智三蔵は天台大師智顗の一念三千の義を盗み取り、真言宗の肝心とした上に、印と真言とを加へて「大日勝法華劣の教判・理同事勝」の慢心を起こしたのである。このような事の詳細を知らない学者等は、「天竺(インド)においては大日経に一念三千の法門が備わっている」と思い込んでしまった。

華厳宗においては、四祖・澄観の時に華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文の解釈に智顗の一念三千の法門を盗み入れた。しかし、人々はこのことを知らないのである。

日本国・我が朝には、華厳宗等の南都六宗が天台宗、真言宗以前に渡来している。これら六宗の内、華厳宗、三論宗、法相宗が論争することは水火のようであり、真っ向から反対意見をぶつけあっていた。

伝教大師最澄がこの日本国に出生して南都六宗の邪見を破るだけではなく、真言宗が智顗の法華経の一念三千の理を盗み取って自宗の極意としていることを明らかにした。最澄は各宗派の人師の異執を捨てて専ら経文を前面にして、各宗派の誤りを責めたのである。結果、南都六宗の高僧ら八人・十二人・十四人・三百余人並びに弘法大師空海等も責め落とされて、日本国の人々は皆、天台宗に帰伏し南都六宗・真言宗の東寺・日本全国の山寺はことごとく比叡山の末寺となったのである。

 

日蓮は真言への本格批判を展開。その誤りの根源を顕すためだろうか、インドより中国に行き密教の基礎を築いた祖師・善無畏三蔵や金剛智三蔵を名指しする。そして彼らによる邪義として特に「大日勝法華劣の教判・理同事勝」を批判するのである。

 

最澄について、今日では「本人にはその意思があったものの、結局は密教を十分に摂取できずに一生を終ってしまった」という認識がされているが、日蓮の最澄像は異なっており、「弘法大師等せめをとされて」「日本国一人もなく天台宗に帰伏し」というものになっている。だが、実際は空海から通用を断られてしまい、密教の習得成就せずして一生を閉じたというものではなかったか。日蓮は最澄を再評価して物語を作ろうとしたものか。いずれにしても、日蓮の最澄像は現在認識されているものとはかなりの隔たりがあるようだ。

 

 

本文

仏は久遠の仏なれば迹化他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき、澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、且つは自らの依経を讃歎せんために、或は云はく「華厳経の教主は報身、法華経は応身」と。或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位」等云云。雲は月をかくし、讒臣は賢人をかくす。人讒せば黄石も玉とみへ、諛臣も賢人かとをぼゆ。今、濁世の学者等、彼等の讒義に隠されて、寿量品の玉を翫ばず。又、天台宗の人々もたぼらかされて、金石一同のをもひをなせる人々もあり。(P576)

 

意訳

法華経如来寿量品第十六の仏は久遠の仏であり、迹化教化の菩薩、他の国土の大菩薩も皆、教主・釈尊の弟子なのである。釈尊説教の一切経の中において、この寿量品の存在が無かったならば、天に太陽や月が無く、国に大王がおらず、山川に珠が無いようなものであり、人に魂が無いようなものなのである。

ところが、華厳宗・真言宗などの権教の宗派の、智慧賢いと思われている澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の権宗の人々は自らの依経を讃歎したいがために、華厳宗の或る者は「華厳経の教主は報身であり、法華経の教主は応身である」と言うのである。真言宗の或る者は「法華如来寿量品第十六の仏は無明・迷いの辺域にいるのだ。大日経の仏は明・悟りの境地にいるのである」等と言っている。

雲は月を隠してしまい、讒臣=へつらいそれでいて邪なる臣下は賢人を隠す、といわれる。人に騙されたならば、そこらへんにある黄色の石も宝の石と見え、媚びておもねり邪心を抱く臣下も賢人のように見えてしまう。

今の末法濁世の僧侶等は華厳・真言等の邪なる教えに誑かされて、法華経如来寿量品の玉を手に抱き喜ぼうとすることもない。同時に天台宗の人々もたぼらかされ、本物の金と、どこにでもある石を「同等のものであろう」と考えてしまう人も多いのである。

 

ここでは華厳宗、真言宗を批判し、天台法華宗も「華厳・真言等の邪なる教え」に誑惑されているとしている。

 

【 天台宗の本尊 】

本文

今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部、大日如来の御弟子の諸大菩薩、猶、教主釈尊の御弟子なり。諸仏、釈迦如来の分身たる上は、諸仏の所化申すにをよばず。何に況んや、此の土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや。而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。(P577)

 

意訳

今、久遠実成が顕れたことにより、東方・薬師如来の弟子たる日光菩薩・月光菩薩、西方阿弥陀如来の弟子たる観音菩薩・勢至菩薩、そして十方世界の諸仏の弟子や、大日経・金剛頂経等にて説示された金剛界大日如来・胎蔵界大日如来の弟子である諸々の大菩薩達は、教主釈尊の弟子であることが明らかとなったのである。諸仏が釈迦如来の分身である以上は、諸仏より教化された弟子達も、釈迦如来の弟子であることはいうまでもない。ましてや、法界の遠い過去よりの存在たる、日月・衆星等の善神が教主釈尊の御弟子に非ず、ということはありえない。しかるに、天台宗以外の諸宗は本尊に迷っているのである。

 

日蓮は迹化の仏・菩薩と釈尊の師弟を説示して、特に本尊については天台宗に一目置いた記述をする。注意したいのが「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」とする「迷いのない天台宗の本尊は何か」ということだ。日蓮は比叡山で学び法華経最第一の確信を深めたと思われ、その法華経を説き示したのが教主釈尊である。これまで見てきたように佐渡以前の日蓮は「天台僧」であり、天台僧としての教説を重ねてきた。

 

ここで、佐前における本尊についての教示を見てみよう。

 

文応元年(1260)「唱法華題目抄」

問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。答へて云はく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。(P202)

 

文応元年(1260)「立正安国論」

国主に対して捨邪帰正を勧め、立正による安国を説き、天台宗・比叡山復興を願望とした日蓮は国主の帰命すべき本尊として、法華経の教主たる「釈迦仏」を考えていたと推測する。具体的には国主造立の釈迦如来像か。

 

文永3(1266)「善無畏抄」

然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり。(P412)

 

文永6(1269)「法門可被申様之事」

又日蓮房の申し候、仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は、諸神もかへり給ふべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。(P456)

 

文永7(1270)「善無畏三蔵抄」

而れば此の土の一切衆生生死を厭ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。然るを当世聖行なき此の土の人々の仏をつくりかゝせ給ふに、先づ他仏をさきとするは、其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上、世間の礼儀にもはづれて候。(P469)

 

日本国の一切衆生も亦復是くの如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を書き造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。(P476)

 

文永8(1271)当時の草庵「神国王御書」

悦ばしい哉、経文に任せて五五百歳広宣流布をまつ。悲しい哉、闘諍堅固の時に当たって此の国修羅道となるべし。清盛入道と頼朝とは源平両家、本より狗犬と猿猴とのごとし。小人小福の頼朝をあだみしゆへに、宿敵たる入道の一門はほろびし上、科なき主上の西海に沈み給ひし事は不便の事なり。此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使ひとして世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。此の事如何なる宿意もなし、当座の科もなし、たゞ法華経を弘通する計りの大科なり。(P892)

 

以上、六つの遺文に加えて、次のことを併せ考えてみたい。

・「善無畏抄」と同時代の文永3(1266)4(1267)年頃より始められた天台大師講では、釈迦像を本尊としていたと思われること。

・天台僧として法華経最第一を訴え、法華勧奨に身命を賭しており、その教主は釈尊であること。

・比叡山の復興を期していたこと。

・文永10(1273)511日の「顕仏未来記」(真蹟曽存)では、

伝教大師云はく『浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す』等。安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号づく」

と、自らを二千二百数十年以上前の釈迦を源流とする、智顗、最澄に連なる法華経伝道の導師と位置付けており、それは相承の根源の師・教主釈尊を拝する姿勢でもあると考えられること。

(仏・先師に連なる宗教的確信、自覚は佐渡で俄かに思いついたものではなく、建長5[1253]の「法門申しはじめ」以来、文永元年[1264]の東条松原の難に至るまでの伝道活動、迫害、弾圧の渦中で芽生え胸中に宿し、そして佐渡において自己の内観世界を文に顕したものではないか)

 

これらから推測すると、日蓮は法華経の教主・釈尊を形に顕した木画の像「釈迦如来像」こそが「天台宗の本尊」であるとしていたと考えられるのではないだろうか。そして天台僧であった日蓮自らも釈迦像を拝し、文永8(1271)10月の曼荼羅図顕以降も随身、奉安し続けるのである。

 

【 東密批判 】

本文

真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし。善無畏三蔵、震旦に来たって後、天台の止観を見て智発(ちほつ)し、大日経の「心実相、我一切本初」の文の神に、天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として、其の上、印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の釈をつくれり。(P579)

 

善無畏三蔵らがインドより中国に到り智顗の摩訶止観を知るところとなり、一念三千を大日経に盗みいれて、釈尊も大日如来も理の上では同じ一念三千であり、実際の作法として印・真言がある大日経の方が勝れている、との理同事勝の釈を作ったと批判。

 

 

本文

法華経に云はく「已今当」等云云。妙楽云はく「縦(たと)ひ経有って諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず」等云云。又云はく「已今当の妙、茲(ここ)に於て固く迷ふ。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。

此の経釈におどろいて、一切経並びに人師の疏釈を見るに、狐疑(こぎ)の氷とけぬ。今真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝れたりとをほ()せられぬれば、なんどをも()へるはいうにかいなき事なり。(P585)

中略

日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の弘法にすぐれたり。天台・伝教の跡をしのぶゆへなり。彼の人々は天台・伝教に帰せさせ給はずは、謗法の失、脱れさせ給ふべしや。(P589)

 

「理同事勝」によせて、密教は法華経に勝れているとする真言師を「愚者」と批判。日蓮は諸経の勝劣を知ることについては、華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の弘法よりも勝れ、それは智顗・最澄の教えを継承するが故であるとしている。

 

 

文永8(1271)1022日の「寺泊御書」では諸宗破折の中でも真言宗が的となり、中国における密教の基礎を築いた善無畏三蔵等が「印と真言は仏教の最要」として、「印と真言のない経典を下した=大日経が勝れ法華経は劣る」とした「大日勝法華劣の教判・理同事勝」を批判。ここにおいて日蓮は、「法華真言未分」の域より脱したことが窺われる。続いて「開目抄」を著した「佐渡期」においては、真言宗の中でも中国の善無畏と共に日本の空海を名指しで批判するようになり、東密破折の姿勢が鮮明となってくる。台密については上記のように慈覚大師円仁の名を出してその誤りを正すも、教理的批判にまでは踏み入らない。

 

前のページ                                  次のページ