(14)  「顕謗法抄」

「顕謗法抄」(真蹟曽存)では、密教に対する批判が見られる。

 

本文

真言宗には日本国に二の流あり。東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり。何に況んや大日経にをいてをや。天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり。印・真言等は超過せりと云云。此等は皆悪道に堕つべしや。

答へて云はく、宗をたて、経々の勝劣を判ずるに二の義あり。一は似破(じは)、二は能破(のうは)なり。一に似破とは、他の義は吉()しとおもえども此をは()す。かの正義を分明にあらはさんがためか。二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁(わきま)へずして、迷って我が義すぐれたりとをもひて、心中よりこれを破するをば能破という。されば彼の宗々の祖師に似破・能破の二の義あるべし。心中には法華経は諸経に勝れたりと思へども、且く違して法華経の義を顕はさんとをもひて、これをは()する事あり。提婆達多・阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなりて仏徳を顕はし、後には仏に帰せしがごとし。又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し。されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかゝずば、謗法の者悪道に堕ちたりとしるべし。三論の嘉祥(かじょう)・華厳の澄観(ちょうかん)・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか。よくよく尋ねならうべし。(P261)

 

日蓮は日本の真言の二つの流れを、「東寺の真言」(東密)と「天台の真言」(台密)に分ける。(尚、遺文には東密、台密との表現は見当たらない)

東密は弘法大師空海が「十住心」によって経典を区分しており、「第八法華・第九華厳・第十真言」と位置付けて、「法華経は大日経に劣るだけではなく華厳経にも劣る」と教判していることを記す。続いて台密では、「大日経と法華経は『理』において等しいのだが、大日経には『印と真言』という『事』が具されており、その分だけ、大日経が勝れている」という教判「理同事勝」を記している。その上で「此等は皆、悪道に堕ちるのであろうか」と問いかけるのだが、ここでは「理同事勝」とそれを唱えた慈覚大師円仁への批判よりも、諸々の仏教の祖師達は回心の筆=回心を表さなければ、謗法の者であり、悪道に堕ちるとして、回心していない祖師に三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩・東寺の空海を挙げるのである。このように東密=空海に対する批判は明らかなのだが、台密に対しては同様のことは言わない。

 

 

本文

大日経は印・真言を説く経の中の王、一代一切経の王にはあらず。法華経は真諦俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願、一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり。これ教をしれる者なり。(P270)

 

大日経は「印・真言を説く経の中」では王であるが「一代一切経の王」ではないとして、法華経こそが「一切諸経の所説の所詮の法門の大王」であると法華経最勝を明示するも、日本の台密、慈覚大師円仁批判には踏み切らない。このようなところに当時の日蓮は、台密に一定の配慮をしていることが窺えると思う。

 

【 顕謗法抄の系年 】

本書の系年については不確定であり、「境妙庵目録」は身延在山時の文永11(1274)1215、「日騰目録」は年次不詳、「日諦目録」「日明目録」「高祖遺文録」「縮刷遺文」「昭和定本」は伊豆配流時の弘長2(1262)に系年、「刊本録内」は年号を記さない。「文永9(1272)」とする説(「日蓮大聖人の思想」山上弘道氏 「興風」9)もある。私は文永9(1272)そのものかはともかくとして、佐渡期ということでは山上氏の説に賛成で、理由としては以下を挙げたい。

 

◇「真蹟遺文」では「法門申しはじめ」~伊豆期~鎌倉在住期に至るまで明確な東密批判はなく、文永6(1269)の「法門可被申様之事」から始まること。

 

◇日蓮は京都周辺の真言師が鎌倉へ向かったことを記している。

 

此の悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんとす」

(P1133 清澄寺大衆中 真蹟曽存)

 

「かかる大悪法、年を経て漸漸に関東に落ち下りて、諸堂の別当供僧となり連連と之を行う。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是れを用いきたれり。」

(P683 祈祷抄 真蹟曽存)

 

「先に王法を失ひし真言漸く関東に落ち下る。存外に崇重せらるゝ故に、鎌倉又還りて大謗法一闡提の官僧・禅僧・念仏僧の檀那と成りて、新寺を建立して旧寺を捨つる故に、天神は眼を瞋らして此の国を睨め、地神は憤りを含んで身を震ふ。長星は一天に覆ひ、地震は四海を動かす。」

(P1329 下山御消息 真蹟断片)

 

以上の記述に見られるように、承久の乱以降、鎌倉に流入して幕府要路と通じていた真言師(1)らが官僧として祈祷をなしたことが天災地変の因であるとしている。特に文永5(1268)の蒙古の牒状到来により、真言師らは異国調伏の祈祷も行っただろうから、日蓮の危機感は相当なものがあったと思われ、この頃に密教破折の意を固めたと考えられる。尚、文永9(1272)の「祈祷抄」では、承久の乱での朝廷側敗北の根本原因は密教の祈祷であることを示している。

 

◇「顕謗法抄」に「本朝沙門日蓮」とあるが、同様のことを認めるのは、

・弘長2(1262)210日「教機時国抄」の「本朝沙門日蓮之を註す」(ただし真蹟はなく日朝本)

・文永9(1272)「祈祷抄」の「本朝沙門 日蓮撰」

・文永10(1273)425日「観心本尊抄」の「本朝沙門日蓮撰」

と四つの遺文に認められるのだが、確実な文献は真蹟30紙が身延山久遠寺に曽存した「祈祷抄」と真蹟171帖が中山法華経寺に蔵される「観心本尊抄」の二つであり、両書はいずれも佐中の書であること。且つ「本朝沙門」は「文永8年の法難」・竜口の首の座を経た後の、日蓮の境地を顕すのに相応しい表現と思われること。

 

◇文永3(1266)16日の「法華題目抄」(真蹟断片)では「根本大師門人 日蓮 撰」と、天台僧の名乗りをしていたことから、それ以前(弘長2[1262])に「本朝沙門日蓮」とするのは考えづらいこと尚、「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」とある「法華取要抄」は文永11(1274)525日付で佐後の身延期である。

 

◇本書では、東密に対して明確に批判、天台の真言=台密に対しては東密批判よりはトーンダウンしており、台密批判は萌芽の時代、即ち佐渡期頃ではないかと思われる。

 

このような観点から「顕謗法抄」の系年は佐渡期と考えられるのではないだろうか。そして日蓮の対真言・東密破については、文永6(1269)「法門可被申様之事」以降の明文化ということになるだろう。

 

 

(1)「鶴岡八幡宮寺社務職次第」(群書類従 第四輯 補任部 P477)に、鶴岡八幡宮寺の別当職について、初代から17代までは「寺門派=三井寺=園城寺」と「東寺」の高僧であったことが記されている。これにより、密教系宗派と幕府の親密な関係、密教僧の鎌倉への定着のほどが窺われるのである。

 

初代・円暁(三井寺)

二代・尊暁(三井寺)

三代・定暁(三井寺)

四代・公暁(三井寺)

五代・慶幸(三井寺)

六代・定豪(東寺)

七代・定雅(東寺)

八代・定親(東寺)

九代・隆弁(三井寺)

十代・頼助(東寺)

十一代・政助(東寺)

十二代・道瑜(三井寺)

十三代・道珍(三井寺)

十四代・房海(三井寺)

十五代・信忠(東寺)

十六代・顕弁(三井寺)

十七代・有助(東寺)

 

日蓮遺文にも「其の上又当世の天台座主は一向真言座主也。又当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流、此れ等は遠くは釈迦・多宝・十方諸仏の大怨敵、近くは伝教大師の讐敵也。」(P1838 弘安3[1280]12月 諌暁八幡抄 真蹟)とある。

 

 

(2)

日蓮宗新聞・20101220日号

「ご真蹟に触れる」(中尾堯氏)で紹介される。

記事~「顕謗法抄は真蹟遺文―114字の断片新発見」

山梨県南アルプス市某氏所蔵

この1行の断片は、まさに顕謗法抄の一部である。

この筆跡から見ると、法華経寺に伝来する「法門可被申抄」と同時期の文永6(1269)前後の著作と思われる。

 

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