(17)  「清澄寺大衆中」

           花房蓮華寺付近
           花房蓮華寺付近

建治2(1276 または文永12[1275])111日に清澄寺大衆に報じた「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)

 

本文

今年は殊(こと)に仏法の邪正たゞさるべき年か。浄顕の御房・義城房等には申し給ふべし。日蓮が度々殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ、頸を刎()ねられんとせし事は別に世間の失に候はず。生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見(びゃっけん)を責めて見んと思ふ。其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且(しばら)く之を置く。日本国の法華経の正義を失ふて、一人もなく人の悪道に堕つる事は、真言宗が影の身に随ふがごとく、山々寺々ごとに法華宗に真言宗をあひそ()ひて、如法の法華経に十八道をそへ、懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して、或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印真言をもって開眼供養するゆへに、日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれなり。此の悪真言かまくら(鎌倉)に来たりて又日本国をほろぼさんとす。(P1133)

 

「今年は特に仏法の邪正をただすべき年であろう。(前年、1225日に真言僧・強仁が勘状を作成して日蓮に呈しており、日蓮は公場対決を期していた)日蓮が何回も殺されかけて、二度も流罪され、死罪にまで処せられんとしたのは、世間の失ではない。(仏法の邪正を糺してきたが故である)生身の虚空蔵菩薩より大智慧を賜ることがあった。『日本第一の智者となし給へ』との祈願に、虚空蔵菩薩は『不憫』と思ったのであろう、明星の如くなる大宝珠を日蓮に授けてくださり、それを右の袖に受け取り、一切経を見たのである。そこで、八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知るところとなった」として、日蓮は特に「真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり」真言こそが法華経を破失する教えであり、大事であるとし「先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ」と、真言批判の序分に禅宗・念仏宗の誤りを攻めたのである、とする。(真言批判は「法門申しはじめ」当初から意図されたものではなく、その意思は後年に至って形成されている)

続いて、インド・中国での仏法の邪正は横に置くとして、日本国が法華経の正義を失って、大衆が悪道に堕ちてしまうのは、真言宗の誤りによるとして当時の台密寺院の潅頂などを描きながら真言批判を展開し、「真言経は爾前権経の内の華厳経や般若経にも劣っているのに、天台の慈覚大師、東密の弘法大師が経典の高低浅深に迷惑して、『法華経に同じである』または『法華経に勝れる』などと唱え邪義を流布させた。仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言により開眼供養した故に、日本国の木画の諸像は皆、無魂・無眼の像となってしまった。結局は、仏ではなく、天魔が入るところとなり、祈願する檀那を滅ぼしてしまう仏像となってしまったのである。王法が尽きようするのは、真言の亡国の悪法によるものなのである。この悪法・真言が鎌倉に来たり流布して、今又、日本国を滅ぼそうとしているのである」とする。

 

※仏眼尊=胎蔵界曼荼羅遍智院の尊で、仏眼仏母ともいい一切の仏を出生させる徳があるとされ、仏の智を象徴している。

 

以上のように、真言亡国の悪法を痛烈に批判。そこに、悪法を唱えた者として、弘法の前に「台密」の慈覚を記している。文中の先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見(びゃっけん)を責めて見んと思ふ」によれば、「日蓮は建長5年の法華勧奨以降、諸経批判を敢行。他宗全てを誤れるものとした」と理解する向きもあるかもしれない。だが実際には、明確な台密批判は前に見たように文永11(1274)1120日の「曾谷入道殿御書」からで、当書はそれからわずか13箇月と少しなのだ。

このような日蓮の意識の切り替わりの早さというか、思想転向の素早さ、その後の言論活動の徹底ぶりというものに、日蓮を見る人ごとの日蓮像が生み出されてきた因があるように思う。全く日蓮は何人いるのか?というところだろうか。日蓮に関する総合的な情報を掴み得る現代人ですら未だ認識、分析に追われたり、振り回され、議論も甲論乙駁、半永久的に終わりそうもないのだから、ましてや、日蓮と同時代人の日蓮認識というものはどのようなものだったのか?気になるところではある。というのは、日蓮遺文ではなく、「個々の門徒の抱く日蓮像」を伝える文書が見当たらないのだ。門徒同士のやり取りの文書もそうだが、日蓮が受け取った弟子檀越の文書が残っていないのは何故なのだろうか。弟子檀越の日蓮認識としては、存命中のものは見当たらず、日蓮滅後の、本弟子六人の門流関係文書より窺うことが多い(特に富士門流)のが実際だが、そこに出てくる日蓮は、「後世、出来上がった日蓮像」が多く、多分に脚色された人物像ではないだろうか。宗派教学を通して見る日蓮は、たとえば「黒い袈裟」「白い袈裟」「紫の袈裟」等、現在の宗派の袈裟衣の日蓮だったりするのと同じで、宗派色に染められた日蓮になっている。現在の、特定の系統・門流の中では崇敬されても、他の系統・門流からすれば見向きもしないものだろう。要は後世に脚色された日蓮像は宗派ごとの「別人格」と化していて、何人もの日蓮が立ち並んでいるのだ。現状ほど「日蓮学の環境整備がされている」時代はなく、現状ほど「出来上がった宗派ごとの日蓮像が立ち並んでいる」時代もないだろう。これは固定化されこそすれ、統合されるなどは永遠にないと思うが・・・・。

現在残っている文書といえば、日蓮から門下への手紙が多く、いわば縦の関係に属する文書ばかりで、横の関係=弟子・檀越同士のやり取り、文書などが残っていない、見られないのが現実か(日蓮遺文中に記された第三者の日蓮像は別として)。門下の実際の文書による日蓮像が確認できないのは残念な限りだ。

 

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