(18)  「高橋入道殿御返事(加島書)」

          富士宮 上条より
          富士宮 上条より

建治元年(1275)712日の高橋入道殿御返事(加島書)(真蹟)

 

◇本文

但し去年かまくらより此のところへにげ入り候ひし時、道にて候へば各々にも申すべく候ひしかども申す事もなし。又先度の御返事も申し候はぬ事はべちの子細も候はず。なに事にか各々をばへだてまいらせ候べき。あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等もたすけんがためにこそ申せ。かれ等のあだをなすはいよいよ不便にこそ候へ。まして一日も我がかたとて心よせなる人々はいかんがをろかなるべき。世間のをそろしさに妻子ある人々のとをざかるをばことに悦ぶ身なり。日蓮に付きてたすけやりたるかたわなき上、わづかの所領をも召さるゝならば、子細もしらぬ妻子所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし。(P1087)

 

意訳

ただし、去年、鎌倉からこの身延山へにげ入った時、通り道は入道邸の近くだったので立ち寄って皆さんに色々と申すべきであったが、それもできずに通り過ぎてしまった。また、先に頂いたお手紙の返事を認めなかったのは、特別、これといったわけがあるのではない。なに事につけ、皆様を疎ましく思うことがあるだろうか。日蓮に怨をなす念仏者、禅宗、真言師らや国主らをも助けたいがために、法華経を強いて説き聞かせているのであって、彼等が日蓮に怨をなすことは実に不憫なことである。ましてや、一日でも日蓮に味方として心を寄せてくれる人々を、どうして疎かにすることがあるだろうか。日蓮の信者であることについて、世間を憚り恐ろしく思い、妻子ある人々が日蓮から遠ざかっていくことを、ことに喜んでいるのが私の思いである。日蓮についてきても、私は助けてやることもできない上に、僅かの領地を主君に召し取られるならば、仏法の正邪等、細かいことが分からない妻子や家来等は、いかほど嘆くであろうかと心苦しく思うのである。

 

日蓮は佐渡流罪を赦免となり、鎌倉で平左衛門尉と会う。ここで真言破折を中心に蒙古襲来の必定を明言するのだが、直後の書だろうか、系年・文永11(1274)4月とされる「未驚天聴御書」(P808 真蹟断簡)がある。「之を申すと雖も未だ天聴を驚かさゞるか。事三箇度に及ぶ。今諌暁を止むべし。後悔を致す勿れ。」と僅か真蹟二行だけではあるが、当時の日蓮の心境が端的に綴られているものだと思う。

「武家政権・鎌倉幕府へ『立正安国論』の進呈、続く法華勧奨はした。だが、未だに朝廷への『立正安国論』の呈上、諌暁はしていないと言われるだろうが、既に事は三度に及んでいるのである。今はもはや、諌暁はやめるべき時である。悔いるところは一切ない」

短いものだが、立正安国論進呈以来の約14年間、間断なく続けた法華勧奨と、それに伴い度重なった法難と、それらをも過去のこととして高みから俯瞰しているような、宗教者として新境地に達した日蓮の内面世界を表した文章といえるのではないだろうか。また、法華伝道の導師として次なる段階に進みゆくことを予感させるものがあるとも思う。

この頃には、もはや幕府に対して何も期することはなかった。日蓮は「又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり」(P1239 報恩抄 真蹟)として鎌倉を発ち、身延へと向かう。

 

この「高橋入道殿御返事」では、身延への道中、高橋入道邸に寄らなかったこと、返書が遅くなったことを詫びているが、その理由は後ほど記される。

注目したいのは「あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等もたすけんがためにこそ申せ」とあることで、この後に出てくる「謗法者は斬首すべし」との謗法禁断の極言をあわせて考えると、日蓮の真意はどこにあるのかが理解できるのではないか。

即ち文永8(1271)912日に日蓮が平左衛門尉に訴えた、

「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべし」(P1053 撰時抄 真蹟)

続いて文永11(1274)48日、佐渡から鎌倉に帰った日蓮が同じく平左衛門尉に回想的に語った、

「日本国の念仏者と禅と律僧等の頸を切ってゆいのはまにかくべし」(P1088 当書)

との謗法寺院焼却・謗法者斬首の主張は直ちに「行為そのもの」を意味するのではなく、為政者クラスを宗教的に覚醒させること、為政者が「邪を捨て正に帰する」ことを促すところに本意があったのではないか、ということだ。日蓮のそれは極刑云々という物理的なものではなく、為政者に速やかなる宗教的覚醒を促す謗法禁断の比喩的表現だったと思う。

 

(尚、文永8[1271]912日、平左衛門尉に向かって「寺院焼却・謗法者斬首」を直言したということは、この主張は一時だけのものではなく、従前から日蓮の主張するところで、それは日蓮門徒内外に知られていたものでもあったことだろう。建治2[1276]3月の「光日房御書」[真蹟曽存・断片]には「ましていわうや日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頸をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、設ひそらごとなりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわうやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとがに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。」[P1153]とある)

 

もちろん、宗教上の道理、宗教的純潔による比喩を理解できる者でなければそのように認識はしないだろうし、事実、得宗専制下で対蒙古防衛体制を強化して国内治安の維持、悪党鎮圧を急いだ幕府からは従来の秩序、社会の安定を破壊して人心を惑乱する反社会的言動としか受け止められなかったのだろう。その結果が、文永8(1271)の必然的な鎌倉日蓮門徒取り締まりとなったのである。

だが、やはり、当書にあるように、日蓮は念仏者、禅宗の信奉者、真言師ら他経他宗を広める者達、そして国主らを「たすけん」と宗教上、救済せんとしたのが「本願」であった。その真剣一途さのほとばしりが、かかる「焼却・斬首」との宗教的純潔徹底の比喩的表現ではないだろうか。

そして、「諌暁八幡抄」(真蹟)の「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云。日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(P1487)によれば、日蓮の思考には絶えず「一切衆生」があり、自己の宗教の思想的存在基盤を「一切衆生」に置いた祖師、自己の宗教活動の究極目的を「一切衆生」に向けた祖師、後世に残した文書に「一切衆生」を数多く記した祖師というのも、仏教史上、あまり例がないのではないかと思う。ここに日蓮の、余人に抜きんでた内面世界の広さを垣間見る思いがするのだ。

 

 

◇本文

而も去年の二月に御勘気をゆりて、三月の十三日に佐渡の国を立ち、同月の二十六日にかまくらに入り、同じき四月の八日、平さえもの尉にあひたりし時、やうやうの事どもといし中に、蒙古国はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし。たすからんとをもわしたまうならば、日本国の念仏者と禅と律僧等の頸を切ってゆいのはまにかくべし。それも今はすぎぬ。但し皆人のをもひて候は、日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもいて候。これは物のかずにてかずならず。真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大いなる呪咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此の事にまどいて此の国を亡ぼさんとするなり。設ひ二年三年にやぶるべき国なりとも、真言師にいのらする程ならば、一年半年に此の国にせめらるべしと申しきかせ候ひき。(P1088)

 

意訳

去年(文永11[1274])2月に佐渡流罪を赦免されて、3月の13日に佐渡の国を出発、同月の26日に鎌倉に入った。48日、平左衛門尉に会った時、様々なことを問われた中に、「蒙古国はいつ頃攻めてくるだろうか」と言われたので、「今年は攻めてくるであろう。このような異国襲来について、日蓮を用いずに離して、他に日本国を助けることのできる者は一人もいないのだ。助かりたいと思うならば、日本国の念仏者、禅宗の者と律僧等の首を切って、由比が浜に懸けるべきである。しかし、今となっては過ぎ終わったことだ。世の人は皆、日蓮は念仏師、禅、律を誹謗する者と思っている。だが実際は念仏、禅、律などは物の数であっても数ではないようなものだ。真言宗という宗こそが、麗しき日本国の大いなる呪咀の悪法なのである。弘法大師と慈覚大師はこの悪法に惑って、この国を滅ぼそうとしている。たとえ二年、三年で他国に敗北し破られる国であっても、真言師に祈祷させるならば、一年、半年でこの国に攻め滅ぼされるであろう」と申し聞かせた。

 

真言師を横にする平左衛門尉に向かって「真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大いなる呪咀の悪法なり」と直言するところに、日蓮の並々ならぬ東密批判の決意の程を知るのである。時の最高権力に近い者、自らを謀殺しようとした当事者に向かって言い放ったのである。密教批判の宣戦布告ともいうべきか。もう後には引けない。ここに身延入山以降の、日蓮の激しい密教批判の一つの原点が出来上がったともいえるだろうか。

 

 

◇本文

たすけんがために申すを此程あだまるゝ事なれば、ゆりて候ひし時さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども、此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき。又申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに、便宜にて候ひしかば、設ひ各々はいとわせ給ふとも、今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするがの国は守殿の御領、ことにふじなんどは御家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられば各々の御なげきなるべしとをもひし心計りなり。いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申さず候ひき。この御房たちのゆきずりにも、あなかしこあなかしこ、ふじかじまのへんへ立ちよるべからずと申せども、いかゞ候らんとをぼつかなし。(P1088)

 

意訳

日本国を助けようと申す事をこれ程までに怨まれるのだから、流罪が赦免された時に佐渡の国からどのような山中、海辺にでもまぎれ入るべきだったろうが、この事(前文)を今一度、平左衛門尉に申し聞かせて、蒙古軍の日本侵攻後でも生き残るであろう衆生を助けようと鎌倉に上ったのである。

また、平左衛門尉に申し聞かせた後は、最早、鎌倉にはいるべき日蓮ではないから足に任せて出発したのだが、入道邸は道中近くなので、たとえ皆さんには迷惑であろうとも今一度はお会いしたいと千度も思ったのだが、心に心を戦わせて会うこともなく通り過ぎたのである。

その理由は、駿河の国は守殿(相模守・北条時宗)の御領であり、ことに富士一帯は後家尼御前(故北条時頼・重時ら幕府高官の未亡人)の御内の人々が多い。かの人々は日蓮のことを故最明寺殿(北条時頼)、極楽寺殿(北条重時)の敵であると憤っているので、日蓮が皆さんの所に立ち寄ったと聞きつければ、みなさん方に類が及んで迷惑をかけることになってしまうと考え、通過したのである。そのようなわけで今まで御返事も出さなかった。この御房達(伯耆房・覚乗房)にも、何回も道中、富士・加島の辺りには立ち寄ってはいけないと申し含めているが、どうであろうかと心配している。

 

日蓮が佐渡より鎌倉へと向かったのは平左衛門尉に「言うべきこと」があった。それを告げた後は「鎌倉にはいるべきではない」とまでしているが、では、その「言うべきこと」は何か?もちろん、それが前記の文なのだが、その中でも特に「真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大いなる呪咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此の事にまどいて此の国を亡ぼさんとするなり。」が言いたかったのではないかと思うのだ。

これは同じく平左衛門尉との面談を述懐した「撰時抄」(建治元年[1275]6月 真蹟)にも「念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、」(P1053)と記述されるところでもある。

一国が蒙古襲来遠からずの緊張状態にある中で、幕府高官に向かって「日本亡国の因」として明言した宗教が、異国調伏の祈祷によって拠り所としている「真言宗と申す宗」、人が東密の祖・弘法大師と台密の慈覚大師なのだ。これを平左衛門尉に向かって明言したのはこの時が初めてで、最初で最後だったのだろうか。いずれにしてもこのことは「立正安国論」で繰り広げられた法然浄土教禁断・念仏批判と、その後の禅、律などへの批判から更に踏み込んだもので、教理的展開として新局面に入ったこと「批判の選択の最終段階」に至ったことを意味し、それを幕府要路にある者に面と向かって訴えたところが、日蓮の法門形成の一大画期となったのではないかと思う。

 

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