(19)  「慈覚大師事」

    栃木県岩船町指定文化財 慈覚大師誕生の地 円仁銅像
    栃木県岩船町指定文化財 慈覚大師誕生の地 円仁銅像

弘安3(1280)127日、大田入道に報じた「慈覚大師事」(真蹟)では台密を以て諸仏の大怨敵、御讐敵と批判する。

 

◇本文

天台座主を見候へば、伝教大師はさてをきまいらせ候ひぬ。第一義真・第二円澄、此の両人は法華経を正とし、真言を傍(ぼう)とせり。第三の座主慈覚大師は真言を正とし、法華経を傍とせり。其の已後(いご)代々の座主は相論にて思ひ定むる事無し。(P1742)

 

日蓮によれば、最澄の次、初代天台座主の義真(修禅大師)2代の円澄(寂光大師)までは法華経が正で真言が傍であった。それが3代の円仁(慈覚大師)になると真言が正、法華経は傍となり主客が転倒してしまったという。

 

 

◇本文

第五十五並びに第五十七の二代は明雲(みょううん)大僧正座主なり。此の座主は安元(あんげん)三年五月日、院勘を蒙りて伊豆国え配流、山僧大津にて奪ひ取る。後、治承(じしょう)三年十一月に座主となりて源右将軍頼朝を調伏せし程に、寿永(じゅえい)二年十一月十九日義仲に打たれさせ給ふ。此の人生けると死ぬと二度大難に値へり。生の難は仏法の定例(じょうれい)、聖賢の御繁盛の花なり。死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざわいなり。所謂大慢ばら(婆羅)門・須利(しゅり)等なり。

 

55代天台座主であった明雲は高倉天皇の護持僧、後白河法皇の授戒師をつとめ平清盛が出家する際の戒師であった。安元3(1177)、延暦寺末寺と加賀の国司との争いから配流が決せられ、明雲は比叡山を降りて伊豆の国へと向かう。しかし、比叡山大衆が大津で奪還し、治承3(1179)の院政停止「治承三年の政変」で再び座主(57)となる。寿永2(1183)、木曽義仲との法住寺合戦では座主自ら戦うも義仲勢に斬殺され、義仲は明雲の首を西洞院川に放り投げてしまう。このような「死の後の恥辱」というものについて、日蓮は「悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざわい」とする。

 

 

◇本文

(ほぼ)此を勘へたるに、明雲より一向に真言の座主となりて後、今に三十余代一百余年が間、一向真言座主にて法華経の所領を奪へるなり。しかれば此等の人々は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讐敵(しゅうてき)なりと見えて候ぞ。我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給ふべし。

 

このような明雲以降の天台座主は真言の座主となったのであり、彼らは「釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵」であり「梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讐敵」であると痛烈に批判するのである。

 

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