2 天台宗(台密)の僧・日蓮

(1) 自立した天台僧としての法華経の弘経者、題目の弘法者

             比叡山 横川中堂
             比叡山 横川中堂

日蓮が生きた鎌倉時代。

気になるのが、日蓮に対する側、日蓮を見る側の認識、日蓮観ともいうべきものはどのようなものだったのか、ということだ。不思議とも言えるかもしれないが、文永8年に、法然の孫弟子・念阿弥陀仏の弟子・行敏が日蓮に対して送りつけた「難状」を日蓮自身が引用した書、「行敏御返事」(真蹟 定P496)等を除き、日蓮に対する側、他宗や幕府等、外側からの日蓮観、認識を窺わせるような文献は管見の限り見受けられない。

 

 

 

今日では「宗祖、蓮祖、高祖、大菩薩、聖人、お祖師様、大聖人」などと門下各宗各派、尊称を使い敬っているが、当時の他宗の僧、在家の人々は日蓮をどのように、また何宗の僧と見ていたのであろうか。

 

清澄寺には真言・東密の法脈があったので、少年日蓮は彼ら東密の諸師から教示を受けたこともあったろうが、師僧と法兄の法脈(台密)、更に「法門申しはじめ」以降の彼の言動からして、修学期の大半は天台・台密の環境の中で学習、修行を重ねたのではないかと思う。修学が成されると天台宗の依経である法華経について特に強調し、その他経に勝れる所以、「諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき」「一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり」(1259年・正嘉3年・正元元年「守護国家論」真蹟曽存 定P102)法華経最第一を説いたところからして、天台宗の中でも法華経至上主義を掲げる個性的な僧と見られたことだろう。

 

また、専修念仏の法然浄土教を「国を喪(ほろぼ)すの悪法」(守護国家論)として激しく批判、その排斥を主張しているところから、「諸教融和」「諸宗兼学」が一般化していた当時の天台宗の中でも、特に法華経を崇敬する、随分とこだわりの多い僧、事を荒立てる僧というのが大方の認識でもあったことだろうか。

 

尚、少し時代が下った遺文となるが、当時の天台宗の一般的な考え方である「釈尊の教えは皆正法であり、有縁の法により成仏できる」という「釈尊一代教説正法論」「有縁教法得道論」ともいうべきもの、諸宗共存共生の思想を如説修行抄」(1273年・文永105月 日尊本 日朝本)で「当世日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば、何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱ふるも、皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云はれ候なり」(P733)と紹介している。

 

「法門申しはじめ」(P1672 聖人御難事 真蹟)から竜口までの日蓮の教説とその行動を見ると彼は「天台僧」であり、専修念仏禁断、法然浄土経排斥の主張とセットで「日本国の仏教の盟主たる天台宗・比叡山再興、大乗仏教復興」への願望を持っていたが、その意識の根底には釈尊の「依法不依人」の教えに基づく「法華経・涅槃経の僧」というものが脈打っていたように思う。当時の僧侶一般が抱いていた「宗派への帰属意識」よりも、「経典への信仰」の方が優先していたのではないだろうか。彼は「天台沙門」と名乗りながらも、「法華折伏」の行動に当たっては何憚るところもなく、宗派に遠慮したり、縛られるものもなかったであろう。日蓮は強烈なる「経典信仰」「経典中心」の人だったと思う。一方では、少年時代から青年期に仏教の基礎を学んだ清澄山を終世大切にし、遺文には師匠・道善房を始め登場人物が多い。そして、台密から脱却するまでは、比叡山に対しても配慮して思いを寄せている。しかしながら清澄山と違い、遺文に登場する比叡山等での修学時代のことは少なく、人物についてはほとんど見受けられない。立教後の日蓮の著作、書状、図録、要文などは膨大なもので、これらに使用された「経論釈」の大半以上は比叡山で学習、書写しているであろうことと併せ考えれば、比叡山、京畿時代は人と向かい合うよりも、「経典、論、釈」と向かい合っていたように思える。即ち日蓮は各宗各派の教えを認識、分析、摂取することに没頭していたのではないだろうか。この時期=修学期に、思想的には「自立した天台僧」となったのだと思う。

 

(2) 日蓮以前の祖師達

          比叡山 親鸞修行の地 西塔・聖光院跡石碑
          比叡山 親鸞修行の地 西塔・聖光院跡石碑

日蓮に先立つ、鎌倉仏教の他の祖師達を見てみよう。

 

彼らは比叡山で学びながらも、法華経に依って立つことなく他の経典によって一宗を立てている。天台宗の開祖たる智顗・天台大師が講義して弟子の灌頂・章安大師が筆録した「妙法蓮華経玄義(法華玄義)」「妙法蓮華経文句(法華文句)」「摩訶止観」の法華三大部が天台宗の根本典籍だが、後に日蓮が激しく批判するように、当時の天台宗は東密の「理同事勝」の義、密教を取り入れた天台密教・台密であり、更には禅、戒、念仏も摂した四宗兼学の道場でもあった。一方では、山法師=僧兵は山を下りては近隣の寺社と武力衝突し、朝廷には強訴を繰り返してもいた。

 

そのような時代の(日蓮の先輩ともいえるであろう)叡山の学僧が法然、弟子である親鸞。そして栄西、道元らである。

 

法然は比叡山黒谷の叡空に師事して法然房源空と名乗り、中国浄土教・善導の「観無量寿経疏」によって称名念仏による専修念仏を説く。弟子の親鸞は比叡山を出でて各地に布教、その信奉者の集団は隆盛し後の浄土真宗となる。栄西は14歳で比叡山にて出家得度。南宋への留学時に興隆する禅宗に触発され、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事し、臨済宗の嗣法の印可を受け帰国。真言宗などの既成仏教との調和を計りながら布教を進めていく。

          鎌倉 曹洞宗高祖道元禅師 顕彰碑
          鎌倉 曹洞宗高祖道元禅師 顕彰碑

 

 

 

道元は第70世天台座主・公円により出家得度し、三井寺などで天台教学の修学を重ねた後、宋に渡り曹洞宗の天童如浄より印可を受け帰国。各地に布教して一時は比叡山より圧迫されるも永平寺を開創し、北条時頼らの招きにより半年間、鎌倉で教化。

 

 

 

 

日蓮が法華経最第一を唱え、法華経の弘経、題目の弘法を始めた頃、これら先達の教えは民衆、武士社会に深く根を下ろし、多くの信者を擁していたのである。当然、既存のものに対する批判は避けて通れず、それは同時に圧迫を受ける側となることを意味した。また、仏教正統の原点回帰への日蓮の教説であったものの、容易には理解されなかっただろうし、日蓮の意とするところとは違った捉え方もされたであろう。いつの時代でも繰り返される、開道者の労苦である。

 

(3) 再度、日蓮の立場

日蓮の経歴、説くところ、主張からすれば、間違っても「比叡山出身の禅宗、浄土宗、真言宗、律宗のいずれかの僧で法華経第一を説く人物」などとは見られなかったであろうし、そのことは誰よりも日蓮自身が、世間が自己をどのように見ていたか、認識、痛感もしていたことであろう。

 

人は人を見るとき、まずは既成の概念で他者を認識するものだし、それは即ち、大衆は日蓮を「天台宗の僧」と認識していたことを意味するだろう。また、法を説く日蓮も、大衆の機根、化導の順序というものを認識していたであろうから、建長54月末のその瞬間より全くの新しい宗派、今までとは以て非なる新しい教えの僧として法を説いたというよりも、やはり、僧としての自己の成り立ち、経緯を踏まえて天台宗の僧として出発し、法の流布を期したことであろう。

 

そのことを示すのが、立教より13年後の「根本大師門人」との名乗りであり、「天台沙門」との自己の宗派の名乗りでもあったと推するのである。

           比叡山 西塔・釈迦堂
           比叡山 西塔・釈迦堂

前の記述と重なるが、日蓮の主張も専修念仏を掲げる法然浄土教の批判、排斥を訴え、対するように「法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり」(P392法華題目抄 真蹟)として専修唱題ともいえる教説を前面に掲げ、釈尊の教えの真髄に還る、即ち釈尊の出世の本懐と位置付ける法華経を受持すべきことを繰り返し説示しているのであり、多くの人を阿弥陀仏から釈尊へ帰命させようとした「釈尊回帰論者」「原点回帰論者」でもあった。

 

 

 

いずれにしても、日蓮は天台・台密に学び、自立した一天台沙門として出発したのである。故に立教より7年後、「立正安国論」を北条時頼に進覧した際にも「天台沙門」と記し、その論の展開もまた、ただ法華経を勧奨するのみならず、天台宗また大乗仏教復興の代弁者ともいえる記述が窺えるものとなっているのである。

 

尚、文永3年の「法華題目抄」(P394)より窺える専修唱題の理論は至極単純なものである。であればこそ、教説を耳にする各人の持つそれまでの宗教体験による反発、逆縁という試練を経ながらも、一般庶民階層に受け入れられ、広まりゆくこととなったのであろう。

 

問うて云はく、題目計りを唱ふる証文これありや。

答へて云はく、妙法華経の第八に云はく「法華の名を受持せん者、福量るべからず」と。正法華経に云はく「若し此の経を聞きて名号を宣持せば、徳量るべからず」と。添品法華経に云はく「法華の名を受持せん者、福量るべからず」等。此等云云の文は題目計りを唱ふる福計るべからずとみへぬ。一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但一四句偈乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり。

 

(4) 天台宗復興、大乗仏教再興論者としての日蓮

佐藤弘夫氏は「立正安国論」上呈時の日蓮は「法華至上」の立場であり、「法華独勝」ではなかった。「立正」とは専修念仏を禁止し、既存の伝統教団の保護、興隆にあった。ただし、「立正安国論」では衰微する伝統仏教の現状は、比叡山の荒廃として描かれており、日蓮の真意は天台沙門として「山門の再興」を図るところにあった、としている(趣意)。(「日蓮」2003年 ミネルヴァ書房、「日蓮 立正安国論 全訳注」2008年 講談社)

 

私としても同意する着眼点であり、従来ややもすると漫然と読み流し、気づくことのなかった観点だと思う。「日蓮は建長5年の立教以降、一切の不幸の根源は邪宗、邪義にありとして大折伏を展開した。立正安国論は法然浄土教を対告衆にして、全邪宗教を撲滅すべきことを国家に諌暁されたものである」日蓮本仏信仰圏を中心にして、このような認識が世を席捲し大勢となっている。

 

そこには「人間日蓮」という観点はあまり感じられず、「悟りきった本仏・日蓮」であり、建長5年の「法門申しはじめ」の時点で何もかもが出来上がった人になっているように思う。

 

しかしながら真蹟(真蹟曽存)遺文を中心に読み解けば、そこにいる日蓮には「釈尊への信仰を究めようとする人」「法華経の真実に生きようとする人」「非力な自己を乗り越えて同時代の衆生に仏の利益をもたらそうと苦悩し、葛藤し、挑戦を重ねる人」という、人間としての成長の歩みが見られると思うのである。人間日蓮は法華経を通して本仏に直参し、対話を重ね、得たものを現実の娑婆世界に展開し、今度は為政者、仏教者、庶民大衆への布教、そして迫害、受難という経験の中で更に経典の向こうにいる釈尊の真意を汲み取っていったのではないだろうか。「本仏釈尊」「娑婆世界の衆生」という精神世界と現実世界の往復を重ねる過程で、日蓮独自の内観世界というものが創られていったと考えるのである。そしてその昇華された日蓮の内面世界・魂の顕現が、上行菩薩として自己を暗示しながらの曼荼羅図顕となった、と私は考えている。

 

                        比叡山 峰道
                        比叡山 峰道

(5) 「立正安国論」

「法門申しはじめ」から「立正安国論」上呈、竜口、佐渡に至るまでの日蓮は天台僧であり、独自の、一宗の祖師として自己規定していたとは考えづらいものがあり、それは佐藤氏の指摘のとおり「立正安国論」を読み解く事によって明瞭になってくると思う。

 

佐藤氏は、「立正安国論」上呈時の日蓮は「正統天台の復興者としての使命感に燃えていた」(「日蓮」P115)とするが、この場合の「正統天台」とはいかなるものだろうか。

 

当時の比叡山は、開基・最澄の時代とは異なり密教色の濃い、台密と呼称される思想だったのであり、そこで学んだ日蓮は多分に台密思想を摂取しただろうし、「法門申しはじめ」後の建長6年には大日如来よりの相承も受けたとしている。

 

後に確認するが、「安国論」中の記述では、専修念仏興隆による天台宗の教えの衰微、比叡山の堂宇の荒廃を嘆いており、そこには最澄の時代と後に密教化した時代との区分はないようだ。この時の日蓮にとって復興すべきは自身が修学に励んだ比叡山であり、法華経の正義を伝える天台宗、そして法然浄土教が排斥する大乗仏教全般であったことだろう。故に筆者としては「立正安国論」上呈時の日蓮は、「天台宗復興、大乗仏教再興論者」として位置付けたいと思う。

 

以下は「立正安国論」第四段(P216)より

立正安国論 中山法華経寺蔵
立正安国論 中山法華経寺蔵

原文

之に就きて之を見るに、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)の謬釈(びゅうしゃく)を引きて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸(もろもろ)の世天(せてん)等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛(なげう)つ。此の四字を以て多く一切を迷はし、剰(あまつさ)へ三国の聖僧・十方の仏弟を以て皆群賊と号し、併(あわ)せて罵詈(めり)せしむ。近くは所依(しょえ)の浄土の三部経の「唯(ただ)五逆と誹謗正法を除く」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」の誡文(かいもん)に迷ふ者なり。是において、代末代に及び、人聖人に非ず。各(おのおの)冥衢(みょうく)に容()りて並びに直道を忘る。悲しいかな瞳矇(どうもう)を樹()たず。痛ましいかな徒(いたずら)に邪信を催す。故に上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂(おも)へり。

 

概訳

前文で引用した法然の『選択集』の文を見れば、曇鸞・道綽・善導の誤った解釈論を引用して聖道門・浄土門と難行道・易行道の立て分けを行い、法華・真言を始めとして釈尊が一代に亘って説かれた大乗経典・六百三十七部、二千八百八十三巻、そして一切の諸仏、菩薩、及び諸々の世界の天部を全て、聖道門・難行道・雑行の範疇に摂し入れてしまい、或は捨てたり、或は閉じ、或は閣いたり、或は抛ったりすべきことを説いたのである。

この『捨てよ』『閉じよ』『閣け』『抛て』との『捨閉閣抛』の四文字を訴えることにより、多くの衆生を仏教の正道より迷わせただけでなく、インド、中国、日本三国の聖僧、あらゆる仏弟子に対して『あれらは皆群賊である』と非難し、悪口雑言を浴びせているのである。

このような法然の説くところは、近くは浄土宗の所依の経典である浄土三部経(法蔵比丘四十八願中の第十八願)の『念仏を唱えていくならば、極楽浄土への往生を遂げられる。ただし、五逆罪を犯した者と正法を誹謗した者は救済より除外される』との阿弥陀仏の誓願に背くものであり、遠くは釈尊一代の説教の肝心である法華経の第二巻・譬喩品第三の『若し、人が法華経を信ずることなくして、この経を謗るならば(中略)その人は命が尽き果てた後、阿鼻地獄に堕ちることであろう』との誡めに迷う者なのである。

ここにおいて、世は末代に及んでおり、人には法の邪正を弁えることができる聖人はいなくなっている。皆が仏の教えに暗く、無知なる闇の世界を彷徨し仏の説いた成仏への直道を忘れている。

なんとも悲しいことである、迷いの人々は仏の真実の教えを前にしながら目を閉じている。

痛ましいことである、人々はただいたずらに邪なるものを信じ、それらが隆盛している。

故に、上は国王より下は万民に至るまで、全ての人が経といえば浄土三部経以外には所依の経典はなく、仏といえば阿弥陀仏と、脇士たる観音菩薩、勢至菩薩の三尊以外に仏はいない、と思い込んでいるのである。

 

 

「専修念仏」を掲げて他の一切の経典を「捨閉閣抛せよ」とする法然浄土教に対して、ここでは、日蓮は明らかに、法華・真言を始めとした釈尊一代の大乗経典・六百三十七部、二千八百八十三巻を擁護する立場であり、日蓮以前、比叡山に於いて浄土教排斥を唱えた高僧・大衆等と同趣旨の主張を展開しているのである。

 

次の文も大乗仏教擁護の立場から法然を批判している。

立正安国論
立正安国論

原文・第五段(P218)

主人咲み止めて曰く、辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。事の起こりを聞かんとならば、委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間先後を立てゝ権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中法然其の流れを酌むと雖も其の源を知らず。所以は何。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄す。是偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言ひても比無く、責めても余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讎敵なり。此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す。

 

概訳

主人は微笑んで怒り帰ろうとする客を押し留めて言った。

辛味も蓼(たで)の葉を食べつければ分からなくなってしまう、臭気も厠に入っていれば忘れてしまうのと同じで、あなたも悪法に染まっているので善言を聞いては悪言と思い、謗法者を指しては聖人と見間違え、正法を説く師を疑って悪侶としてしまう。その迷いはまことに深いもので、罪も軽いものではない。

あなたが事の起こりを聞こうと思うならば詳しく説明しよう。釈尊が一代に説いた経典には順番があり「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」の五時に分けられ、、権教と実教の立て分けがある。

ところが中国浄土教の曇鸞・道綽・善導らは方便の権教を重んじて釈尊のまことの教えである実教を忘れ、先に説かれた浄土三部経に依って、後に説かれて最第一とされた法華経を捨ててしまっている。これらは未だ仏教の奥深い教えを究めようとしないものなのである。特に法然はその流れを汲んでいながらも、誤りの根源を知らない。それはどうしてだろうか。

法然は大乗経典六百三十七部、二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏・菩薩及び諸々の天衆に対して「捨閉閣抛」の四文字を当てはめ、それを多くの人に実行させて一切衆生の正しき信仰心を惑わしたのである。これはひとえに我流の解釈を展開したもので、仏の教説に依らないものなのだ。「捨閉閣抛」などは迷妄も極まっており、その悪口の罪はたとえようもないもので、責めても余りあるものなのだ。人は皆、法然の妄語を信じて「選択集」を尊んでいる。故に権教たる浄土三部経を崇めて他の一切の経典をなげうち、極楽浄土の一仏・阿弥陀如来だけを拝して諸仏の姿、それを拝することを忘れてしまっている。まことに法然は諸仏・諸経典の怨敵であり聖僧と多くの人々の仇敵なのである。この法然浄土教という邪教が日本国に流布し教えは遍くいきわたっているのだ。 

 

(6) 「災難対治抄」

ここで参考としたいのが、立教より7年後の1260年・正元22月、「立正安国論」と同じ年に著された「災難対治抄」(真蹟 定P168)の記述である。文中、日蓮は法然浄土教の専修念仏が活発化し、それ以外の諸経・諸仏・菩薩・諸天善神を捨閉閣抛することによる比叡山衰微、善神捨国を嘆いている。これによれば、日蓮は天台僧として比叡山復興を主張していたことが窺われるのである。

 

今之を勘ふるに、日本国中の上下万人深く法然上人を信じ此の書(選択集)を弄(もてあそ)ぶ。故に無智の道俗此の書の中の捨閉閣抛等の字を見て、浄土の三部経・阿弥陀仏より外の諸経・諸仏・菩薩・諸天善神等に於て捨閉閣抛等の思ひを作し、彼の仏経等に於て供養受持等の志を起こさず、還って捨離の心を生ずる故に、古(いにしえ)の諸大師等の建立する所の鎮護国家の道場、零落(れいらく)せしむと雖も護惜建立の心無し。護惜建立の心無き故に亦読誦供養の音(こえ)絶へ、守護の善神法味を嘗()めざる故に国を捨てゝ去り、四依の聖人も来たらざるなり。偏に金光明・仁王等の「一切の聖人去る時は七難必ず起こらん」「我等四王皆悉く捨去(しゃこ)せん、既に捨離し已()はれば其の国当(まさ)に種々の災禍有るべし」の文に当たれり。豈「諸の悪比丘多く名利を求め悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」の人に非ずや。

 

(7) 再度「立正安国論」

元の「立正安国論」第四段(P216)に戻るが、続いても法然浄土教の隆盛による比叡山中の堂宇の荒廃と大乗仏教の教えの衰微を嘆く。

立正安国論
立正安国論

原文

()りて伝教・義真・慈覚・智証等、或は万里の波濤(はとう)を渉(わた)りて渡せし所の聖教、或は一朝の山川(さんせん)を廻(めぐ)りて崇むる所の仏像、若しくは高山の巓(いただき)に華界(けかい)を建てゝ以て安置し、若しくは深谷(しんこく)の底に蓮宮(れんぐう)を起てゝ以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し、虚空・地蔵の化を成すや、益(やく)を生後(しょうご)に被らしむ。故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭(とうしょく)を明らかにし、地頭は田園を充()てゝ以て供養に備ふ。而(しか)るに法然の選択に依って、則ち教主を忘れて西土(さいど)の仏駄(ぶっだ)を貴び、付嘱を抛(なげう)ちて東方の如来を閣(さしお)き、唯(ただ)四巻三部の経典を専(もっぱ)らにして空しく一代五時の妙典を抛つ。是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏(くぶつ)の志を止(とど)め、念仏の者に非ざれば早く施僧(せそう)の懐(おも)ひを忘る。故に仏堂零落(れいらく)して瓦松(がしょう)の煙老い、僧房(そうぼう)荒廃して庭草(ていそう)の露深し。然りと雖(いえど)も各(おのおの)護惜の心を捨てゝ、並びに建立の思ひを廃す。是を以て住持の聖僧行きて帰らず、守護の善神去りて来たること無し。是偏に法然の選択に依るなり。

立正安国論
立正安国論

概訳

比叡山を開創した最澄、弟子の義真、円仁、円珍等が漢土への往来を重ね、万里の波濤をわたって招来した聖教、日本一国の山川を巡り歩いて崇め奉った仏像、これらは高山=比叡山の頂きに伽藍を建立して堂の中に安置し、あるいは深い谷間に仏堂を建てて安置し崇重したのである。比叡山の西塔=釈迦堂に安置された釈迦如来、東塔止観院=根本中堂に安置された秘仏たる薬師如来は、その威光・利益を現世と来世の二世に施し、横川般若谷に安置された虚空蔵菩薩と、戒心谷に祀られた地蔵菩薩は教化を成して現世、来世に亘り多くの人に利益を与えているのである。故に国主は一郡や一郷を寄進して仏菩薩の灯明を盛んにし、地頭は田畠荘園を寄進して供養をしてきた。

ところが、法然の選択集、専修念仏が広まることにより、多くの衆生は教主たる釈尊を忘却して西方極楽浄土の阿弥陀仏を崇め貴び、釈尊の付属、最澄の教えを抛って東方浄土の薬師如来を閣いている。ただ四巻三部の浄土三部経を信じて、空しく釈尊一代五時の経典を抛っているのである。

この故に、阿弥陀仏の堂でなければ人々は皆、供養をしようともせず、念仏を修する僧でなければ布施をする心を忘れてしまっている。故に仏堂を訪れる人はなく閑散となり、堂舎は傾いて修理もされず、苔がむして僧房は荒廃の極に達し、その庭には雑草が茂り露が深い。

このような仏教界の惨状であるのに、人々は正しき仏教を護ろうという心を捨ててしまい、堂舎建立の思いすらない。これを以て、正しき仏教を継ぐ住持の聖僧は立ち去りて帰ることなく、国土を守護する善神も去ってしまい再び戻ることもない。このような事態は全て、法然の選択集、専修念仏の流布によるものなのである。

 

 

立正安国論を執筆したこの時、日蓮のいう仏教本来の姿とは、

「比叡山の釈迦如来・薬師如来の威光が輝いて今世、来世に利益を施す。虚空蔵、地蔵の教化により今世、来世に亘り多くの人が利益に潤う」ということなのであり、法華経最第一をその主張としながらも、天台僧として、大乗仏教・比叡山の衰微を嘆き、浄土教排斥により天台宗復興・大乗仏教再興を成し遂げんとするのである。

 

続いての第四段末(P217)の日蓮の嘆き、憤り、そして一凶禁断の決意もまた、大乗仏教、天台法華に立脚してのものであろう。

 

悲しきかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷へり。謗を好みて正を忘る、善神怒りを成さゞらんや。円を捨てゝ偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈(ばんき)を修せんより此の一凶を禁ぜんには。 

 

(8) 「安国論御勘由来」

この「立正安国論」に示された思想はその後も日蓮自身の内面で継承されており、8年後の文永5年に法鑑房に報じた「安国論御勘由来」(P422)では、鎌倉幕府に対して比叡山違背による天命を恐れるべきことを説き、即ち比叡山・台密への帰依を勧奨し、法然浄土教・禅宗勃興による比叡山衰微、法華真言の学者が棄てられたこと、国中守護の諸大善神が国土を捨て去ってしまったことを記し、悪鬼が国土に入り災難興起という眼前の事態は、他国侵逼による破国の先兆であることを憂えているのである。

 

殊に清和天皇は、叡山の慧亮(えりょう)和尚の法威に依りて位に即きたまふ、帝皇の外祖父九条右丞相(藤原良房)は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍(源頼朝)は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば天命恐れ有る者か。然るに御鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり。

 

 

もちろん、南無妙法蓮経の口唱を独自に且つ、強烈に説いたことは、日蓮にして初めて成された法門展開でもあるので、日蓮によってインド・中国の仏教が日本化されたとも言えるし、同時にその法の持つ普遍性、力有は一閻浮提にも通じ、十方世界をも包含する雄渾なるスケールに満ちたもの(そのことは後に繰り返し力説されるようになる)、身は天台沙門でありながら、独自の仏教を成したともいえるであろう。しかし、これが台密という育ての親の手を離れて自立し、新たなる仏教としての「日蓮が法門」が顕然となるのは、その後の試練、竜口、佐渡への配流の時を待たねばならないのである。

 

(日蓮は弘安41124日に「天台大師講」を催している。「佐渡期」以降、教理的・信仰的には独自の展開を成すも、天台門徒として比叡山の途中の座主を飛び越えて、最澄、智顗、釈迦との師弟関係を終生貫いていた) 

 

(9) 天台宗系列の日蓮門下

日蓮への帰依の僧には天台僧が多い。今、それらの弟子を見れば、始めて法華経最第一を説いた時の法兄たる浄顕房、義浄房を始めとする清澄寺と近辺の僧。初期の弟子である日昭、そして駿河国蒲原庄・天台宗四十九院の供僧職を務めていた日興。同じ四十九院で修学していた日持、また日向も天台宗の僧であったと推測されている。次いでは、日興の本六の一人となった富士熱原の天台宗滝泉寺の供僧職・日秀と日禅、同じく日弁も天台僧である。

 

*「四十九院申状」 弘安元年3

駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。

承賢 賢秀 日持 日興

 

*「滝泉寺申状」 弘安210

駿河の国富士下方滝泉寺の大衆越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。

 

また、日蓮の鎌倉での人脈は修学期はもちろん、「法門申しはじめ」以降も天台宗信仰圏が中心であり、1259年・正元元年717日に武蔵房に報じた「武蔵殿御消息」(真蹟曽存 定P87)では、日蓮は武蔵房に書籍の借用を依頼している。同時に、天台宗の「法華八講」の日時を訪ねているところから、他の天台僧と共に参加もしていたのであろう。

 

摂論(しょうろん)三巻は給び候へども、釈論等の各疏(しょ)候はざるあひだ事ゆかず候。をなじくは給び候ひてみあわすべく候。見参の事いつにてか候べき。仰せをかほり候はん。八講はいつにて候やらん。

 

「日蓮が一門」に加わった弟子に天台僧が多いということは、彼らも同じ天台門徒として法華経への教養が深く、「法華経最第一」を主張し、最澄の「正像稍過ぎ已て末法太はだ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり。何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」との「法華一乗思想」を教説する「天台法華復興」「法華経の教主・釈尊回帰」でもある日蓮の説が受け入れやすい機根が事前に醸成されていたからであろう。また、その教線は主に天台系の人脈・ネットワークを通して拡大していったことも意味するものでもあろう。

 

(後世言われたことではあるが、日蓮の思想を要約している)「四箇の格言」に見られるように、当然ながら他の仏教諸派、禅、念仏、真言、律などでは、歴史に残る限りは敵対関係ばかりであり、彼らの人脈での広がりというものはあまり見られないのである。このことは、日蓮の布教の軸足がどこにあったか、何を基盤とした弘法であったのか、それは天台法華であり、日蓮の天台僧としての立ち位置を語っているのである。

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