3 修学期の日蓮

少年日蓮が登山した清澄寺は真言・東密と天台・台密の法脈が共にあり、虚空蔵菩薩求聞持法が喧伝された霊場であった。日蓮は少年期から青年期にかけてどのような修学・修行をしたのであろうか。ここでは彼の修学研鑽の一端を知るため、当時の事跡が窺える文献を確認してみよう。

(1) 「授決円多羅義集唐決上」

P2875  書写本・真蹟 日蓮17

1238年・嘉禎4(1123日改元)・暦仁元年

 

同書奥書

嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四

阿房国東北御庄清澄山 道善房

東面執筆是聖房 生年十七才

後見人々是無誹謗

 

青年日蓮が清澄山にて書写をした「授決円多羅義集唐決」上巻の奥書が、真蹟として現存している。

5代天台座主・円珍(智証大師、814年・弘仁5年~891年・寛平3)の著「授決集」を補っているのが、「授決円多羅義集唐決」であり、天台の円珍に仮託されているが実際は後代の人物が記しているようだ。平安時代末期に比叡山で勃興した、中古天台観心主義の初期の文献であり、これが地方の安房の国清澄寺に伝わっていたことは、観心主義の広がりを示すものであると同時に、清澄寺も単なる田舎寺ではなく、中央大寺院の思想的動向の圏内にあった、また、人物の交流が盛んであったことを物語っている。

17歳で書写ということは天台宗学の一環であったろうし、思想的に摂り入れもしたことであろう。

 

(2) 「南条兵衛七郎殿御書」

P326 文永元年1213日 真蹟

法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は、日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。

 

中国の善導、日本の法然らの念仏法門について、日蓮は178歳の時より学んでいたと記述する。

 

日蓮修学の清澄寺において、念仏を唱えていた僧は師匠の道善房であり、更に円智房、実城房らも同様だったろうか。

 

善無畏三蔵抄」(P473 真蹟推定断簡)

此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉んと欲す。而るに此人愚癡におはする上へ念仏者也、三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入し時、彼人の云く、我智慧なければ請用の望もなし、年老ていらへなければ念仏の名僧をも立て不、世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計り也。又、我心より起らざれども事の縁有て、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此科に依て地獄に堕つべきや等云云。爾時に日蓮意に念はく・・・・

 

「報恩抄」(P1239 真蹟)

故道善房はいたう弟子なれば日蓮をばにく()しとはをぼ()せざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはな()れじと執せし人なり。地頭景信がをそ()ろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしをあなが()ちにをそ()れて、いと()をしとをもうとしごろ(年頃)の弟子等をだにもす()てられし人なれば、後生はいかんがと疑う。但一つの冥加には景信と円智・実城とがさきにゆ()きしこそ一つのたす()かりとはをも()へども、彼等は法華経の十羅刹のせ()めをかほり()てはやく失()せぬ。

 

 

尚、円智房は50年の長きにわたり、法華経の読誦をしている。

 

「種種御振舞御書」(P983 真蹟曽存)

円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。

 

(3) 「善無畏三蔵抄」

P471 文永7 真蹟推定断簡 京都妙覚寺蔵 本満寺本

日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易々と生死を離るべき教に入らんと思い候ひて、真言の秘教をあらあら習ひ、此の事を尋ね勘ふるに、一人として答へをする人なし。

中略

日蓮は安房国東条の郷清澄(きよすみ)山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき。其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺(ほぼうかが)ひ侍りぬ。(P473)

 

日蓮は顕密二道の中で勝れた経を、生死出離の教えを求めて、真言密教=東密を学び、「善無畏三蔵が頓死して地獄に堕ちたこと」について問い尋ねたが、答えてくれる人はいなかった。しかし、幼少の時より清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈願をしていた。虚空蔵菩薩は日蓮の眼前に高僧となって出現し、明星の如き智慧の宝珠を授けてくれたのである。そのおかげもあり、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱をほぼ窺い知るところとなったのである、と記している。

 

経典に勝劣があり法華経が最第一で題目が肝心としたのは修学研鑽、努力の結果としての日蓮的理解なのだが、後年の述懐として「教わるに師なく、尋ねるに答えなし」という環境下で学び、虚空蔵菩薩から宝珠を授かったとするのである。この記述、文脈からすれば、やはり虚空蔵菩薩の化身たる高僧の出現、高僧が明星の輝きを放つ智慧の宝珠を授与するという不可思議を、少年日蓮は体験したといえるだろう。

 

(4) 「四條金吾殿御返事」

P663  文永9年 日興本

而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、僧侶の数にも入らず。然而して世の人に随って阿弥陀の名号を持ちしほどに・・・

 

後年、日蓮は世の大多数の人に連なって念仏を唱えたと述懐している。

真蹟ではないが、「佐渡御書」(P615 日朝本 文永9320)の「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひしなり」との「自己の念仏者時代に法華経の行者を嘲笑した」という記述と師僧・道善房が念仏者であったことを併せ考えると、出家後の日蓮が学習したのは真言・天台と共に浄土教でもあった。

 

日蓮が「善無畏三蔵抄」(P474)で述懐しているように、道善房は阿弥陀仏を五体作るほどの熱心念仏者であった。

 

文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云はく、我智慧なければ請用の望もなし、年老ひていらへなければ念仏の名僧をも立てず。世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此の科に依って地獄に堕つべきや等云云。

 

青年日蓮は、このような師匠の教示により念仏を唱えたのであろう。浄土教を学び念仏も唱えた日蓮は何をどう感じたのであろうか。その後の、法然と「選択本願念仏集」を主な対象とした激しい浄土教批判、そして「法華真言未分」時代の記述を踏まえると、比叡山が浄土教を受用することにより伝教・義真・慈覚・智証以来の「聖教」と「仏像」は、「浄土三部の外に経無く」「仏は弥陀三尊の外に仏無し」(立正安国論・第四段・定P216)となってしまい叡山は浄土教に覆われ、法華一乗の根本宗義が薄らいで衰微の一途をたどった、と認識したのであろう。

 

日蓮の浄土教・経論の認識は「浄土三部経」(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)はもとより、「般舟三昧経」「十住毘婆沙論」「浄土論註」「安楽集」「観無量寿経疏(観経疏)」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」「往生要集」「往生拾因」「往生講式」「選択本願念仏集」などが遺文に記されている。これら、浄土教に対する認識が深まるにつれ、日蓮は(当初は密教と)法華経・涅槃経に依って立ち、「法門申しはじめ」以降の激しい浄土教批判の展開となったのだと考えられる。日蓮のそのような心情が端的に示されているのが、前に引用した「立正安国論」の一説であり「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」との念仏禁断の主張だと思う。尚、日蓮は「法門申しはじめ」の前後のみならず、建治期に至っても浄土教批判の為の準備を進めており、慧遠の「無量寿経義記・疏」、元照の「仏説阿弥陀義疏」の要文を記した「要文雙紙」(建治2年頃とされる)が現存している。

 

【 日蓮遺文に見られる浄土教の経論 】

*「般舟三昧経」=「本尊問答抄」(P1573 日興本)

文殊問(もんじゅもん)経・般舟三昧(はんじゅざんまい)経・請観音(しょうかんのん)経等による。

 

*「十住毘婆沙論」=「守護国家論」(P104 真蹟曽存)

而るに浄土の三師に於ては鸞(らん)・綽(しゃく)の二師は十住毘婆沙論に依って難易聖浄の二道を立つ。

 

*「浄土論註」「安楽集」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」=「一代五時図」(P2284 真蹟)

・曇鸞(どんらん)法師   本三論宗の人なり浄土論註二巻を作る

・道綽(どうしゃく)禅師  善導の師なり安楽集二巻を作る

・善導   玄義一巻、序分義一巻、定善義一巻、散善義一巻、観念法門一巻、往生礼讃一巻、般舟讃一巻、法華讃上下、已上九巻。

 

*「観無量寿経疏(観経疏)」「選択本願念仏集」=「立正安国論」(P214 真蹟)

・主人の曰く、御鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。

・観無量寿経に云はく、同経の疏に云はく

 

*「往生要集」「往生拾因」「往生講式」=浄蓮房御書(細美抄)(P1075 日興本)

漢土日本には八宗を習ふ智人も正法すでに過ぎて像法に入りしかば、かしこき人々は皆自宗を捨てゝ浄土の念仏に遷りし事此なり。日本国のいろはは天台山の慧心の往生要集此なり。三論の永観(ようかん)が十因(往生拾因[おうじょうじゅういん])・往生講式、此等は皆此の法門をうかがい得たる人々なり。

 

「往生拾因」=「撰時抄」(P1032 真蹟)

又三論の永観が十因(往生拾因)等をみよ。されば法華真言等をすてゝ一向に念仏せば十即十生百即百生とすゝめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞、道理かとみへければ、顕真座主落ちさせ給ひて法然が弟子となる。其の上設ひ法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ。譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば千人共に五逆の者なり。 

 

(5) 「神国王御書」

P885 真蹟 昭和定本「文永122月」・平成校定「弘安元年」・全集「建治元年」・岡元錬城氏、山上弘道氏「建治3821日」

 

而るに日蓮此の事を疑ひしゆへに、幼少の比(ころ)より随分に顕密二道并びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し勘(かんが)へ見て候へば、故の候ひけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしとみへて候。

 

日蓮は、幼少の頃より顕密二道並びに諸宗の一切の経を修学する。人から教わり、自己研鑽を重ねた。明鏡で我が顔を見る如く、国土の盛衰を知るのは仏鏡である。経典によれば、仏法によって国は栄え、人の寿命は長く、仏法によって国は滅び、人も短命となる、とする。

 

(6) 「清澄寺大衆中」

P1133  建治2(または文永12) 真蹟曽存 平賀本

生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食()しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。

 

日蓮は、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を賜ることがあった。「日本第一の智者となし給へ」との祈願に、虚空蔵菩薩は「不憫」と思ったのであろう、明星の如くなる大宝珠を日蓮に授けてくださり、それを右の袖に受け取り、一切経を見たのである。そこで、八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知るところとなった、とする。 

 

(7)「妙法尼御前御返事」

P1535  弘安元年7月 真蹟断簡

(それ)(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこ()きも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんが()へあつ()めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこ()しもくもりなし。

 

日蓮の出家の動機に、生死の問題の解決があったこと、そして一切経とそれについての論師・人師の書釈を学んだことが窺われる。 

 

(8) 「本尊問答抄」

P1580 弘安元年9月 日興本

生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし。然而(しかるに)随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり。人はおしへず、十宗の元起(げんき)勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘(かんが)へて十宗に合はせたるに、

 

日蓮は12歳で清澄山に入山したものの、遠国である上に、修学の人はなかった、との記述には、当時の清澄寺は日蓮の求めに応えうるだけの環境・人材、経典等がなかったことが窺われる。そこで、諸国を修行、学問をして自己努力を重ね、仏菩薩に祈請して一切経を深く考え、仏法の邪正を知るところとなった。

 

ところで日蓮は経典の学習と共に、どのような仏菩薩に祈請したのであろうか?

建長5年より遥か以前のことであり、立教後の「法華・真言未分」の思想も踏まえて推考すれば、清澄寺の虚空蔵菩薩を始めとして、釈迦如来、多宝如来、上行・無辺行・浄行・安立行等の四菩薩、文殊師利菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、不動明王、愛染明王、持国天王、増長天王、広目天王、毘沙門天王の四天王、 日天子、月天子、明星天子の三光天子、天照太神、八幡大菩薩、天台大師、伝教大師等々、後に曼荼羅中に勧請するところとなった、様々な仏菩薩に祈請したのではないだろうか。 

 

(9) 「題目弥陀名号勝劣事」

P301  文永元年 平賀本

妙法蓮華経は能開(のうかい)なり。南無阿弥陀仏は所開(しょかい)なり。能開所開を弁(わきま)へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほ()に申し侍るなり。日蓮幼少の時、習ひそこなひの天台宗・真言宗に教へられて、此の義を存じて数十年の間ありしなり。是存外(ぞんがい)の僻案(びゃくあん)なり。

 

日蓮は幼少時、天台宗・真言宗の僧に学んでいた、との記述。

 

(10) 「破良観等御書」

P1283  建治2年 延山録外

予はかつし()ろしめ()されて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願(がん)を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其の後、先づ浄土宗・禅宗をきく。其の後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処々に修行して自他宗の法門をならひしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん。

 

日蓮は12歳、清澄山に入山した時より、「日本第一の智者となし給へ」と虚空蔵菩薩に祈願している。そして「経文を詮とせん」と、経典中心主義であったことが記されている。  

 

(11) 「妙法比丘尼御返事」

P1553  弘安元年9月 日朝本

此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るゝ身とならんと思ひて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす。日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや。又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗々枝葉(しよう)をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に、一つの不思議あり。

 

幼少の時より阿弥陀仏を頼んで弥陀の名号を唱えた。しかし、釈尊一代の教えの真実を求めて二十余年間、諸国、各寺院での修学を重ねた、との記述。 

 

(12) 日蓮は比叡山で恵心流椙生の学匠俊範に就学したとの伝承がある。

「日大直兼十番問答記」(「日蓮聖人研究」1P114)

直兼ノ物語ニ云ク。当山ニハ(今ヤ)碩学之無シ云云。某ハ俊範ヨリ四代也。此ノ坊ハ俊範法印護摩堂ノ跡也。慧心院ノ宗督我ニ在リ云云。

日大答ヘテ云ク。大聖人、俊範ヨリ天台ノ法門ハ御相伝也云云。日大ハ当宗御弘通ヨリ四代也。天台ノ御相承、坂本坊ニテ、日大、直兼ニ値ヒ、天台宗ト法門ノ論、同不同アリ云云。交合云云。宿習不思議不思議。南無妙法蓮華経。

 

日蓮の図録「浄土九品之事」(P2310 真蹟)には、

大和ノ荘

俊範法印   椙生

三塔ノ総学頭

と記し、俊範は「三塔ノ総学頭」とある。

 

山川智応氏は俊範の生滅年代を1183年・寿永2(治承7)から1262年・弘長2年とし、日蓮修学の頃は、俊範は60歳から71歳と推定している。

 

ただし、青年日蓮が俊範より相伝を受けたとか、親しく教導されたなどは日蓮自身の記述にはなく、比叡山で同じ時空間を共有しているところから、三塔ノ総学頭の講義を聴講したことが推測されるだけであり、それ以上の関係は不明ということになる。 

 

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