(4)  「守護国家論」

系年が1259年・正嘉3年・正元元年とされる「守護国家論」(真蹟曽存 定P97)では、大日経と法華経は同じ了義経の範疇として以下のように記している。

 

問うて云はく、不了義経を捨てゝ了義経に就くとは、大円覚修多羅(だいえんがくしゅたら)了義経・大仏頂如来密因修証(だいぶっちょうにょらいみついんしゅしょう)了義経、是くの如き諸大乗経は皆了義経なり。依用(えゆう)と為すべきや。

答へて曰く、了義・不了義は所対に随って不同なり。二乗・菩薩等の所説の不了義経に対すれば一代の仏説は皆了義なり。仏説に就いて亦小乗経は不了義、大乗経は了義なり。大乗に就いて又四十余年の諸経は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり。而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。

 

この時の日蓮は「法華・涅槃・大日経等は了義経なり」との考えであり、「法華・真言未分」の立場から、真言は法華経と同価値としているのであり、密教に対する批判は見られない。

 

法華・真言未分の記述は当書に散見される。

 

① 法華真言の直道(P89)

中昔(なかむかし)邪智の上人有りて末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を造る。名を鸞(らん)・綽(しゃく)・導の三師に仮りて一代を二門に分かち、実経を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉ぢて浄土三部の隘路を開く。

 

② 法華・真言の結縁を留む(P104)

日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主慈慧大師の御弟子なり。多くの書を造れども皆法華を弘めんが為なり。而るに往生要集を造る意は(中略)当に知るべし、往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。故に往生要集の後に一乗要決を造りて自身の内証を述ぶる時、法華経を以て本意と為す。而るに源空並びに所化の衆此の義を知らざるが故に、法華・真言を以て三師並びに源信の所破の難聖雑並びに往生要集の序の顕密の中に入れて、三師並びに源信を法華・真言の謗法の人と作す。其の上日本国の一切の道俗を化し法華・真言に於て時機不相応の旨を習はしめ、在家出家の諸人に於て法華・真言の結縁を留む。豈仏の記し給ふ所の「悪世中比丘邪智心諂曲」の人に非ずや。亦、「則断一切世間仏種」の失を免るべきや。其の上山門・寺門・東寺・天台並びに日本国中法華・真言等を習ふ諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる源空が重罪、何れの劫にか其の苦果を経尽すべきや。

 

この文での日蓮の理解によると、「(親鸞が『七高祖』の内『第六祖』と定めた)天台の高僧・源信(恵心僧都 942年・天慶5年~1017年・寛仁元年)は念仏往生を説いて『往生要集』一部三巻を著したが、それは『法華経に入らしめんがために造るところの書』であり、いわば『法華一乗への導入の書』であった。彼の立場は、後に著した『一乗要決』での法華一乗にあったのであり、法華経こそが本意であった」としている。続いて「ところが、法然房源空と弟子達はそれらを知ることもなく、『日本国の一切の道俗』に専修念仏を教え『法華・真言』は『時機不相応』として、『在家出家の諸人』への『法華・真言の結縁を留』めているのである。これは仏が説いた『悪世中比丘邪智心諂曲』の人であり『則断一切世間仏種の失』に当たるのである」とする。文中、比叡山・園城寺・東寺等において、法華・真言等を習ふ大衆を「群賊・悪衆・悪見の人」とする源空を批判しているが、この頃の日蓮には、やはり、法然浄土教に対して天台復興・大乗仏教再興論者としての意識が横溢していたと思われるのである。尚、後文に源信(恵心僧都)の「往生要集」「一乗要決」のことが記されている。

 

源信僧都は永観二年(984)甲申(きのえさる)の冬十一月往生要集を造り寛弘丙午(ひのえうま=1006年・寛弘3)の冬十月の比、一乗要決を作る。其の中間二十余年。権を先にし実を後にす。(P110)

 

③ 選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめん(P106)

釈迦・多宝・十方の諸仏・天親・天台・妙楽の意の如くんば源空は謗法の者なり。所詮選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめんと定め書き了んぬ。謗法の義疑ひ無き者なり。

 

④ (源空の邪義により)国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作す(P106)

而るを源空より已来、竜樹並びに三師の難行等の語を借りて法華・真言等を以て難・雑等の内に入れぬ。所化の弟子、師の失を知らず、此の邪義を以て正義なりと存じ此の国に流布せしむるが故に、国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作す。其の上世間を貪る天台・真言の学者、世情に随はんが為に法華・真言等に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶(たす)け、一旦の欲心に依って釈迦・多宝並びに十方の諸仏の御評定の令法久住於閻浮提広宣流布の誠言(じょうごん)を壊(やぶ)り、一切衆生に於て一切三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ。

 

⑤ 法華・真言を蔑にするところから天災地変が起きる(P117)

是くの如き悪書(源空の選択集のこと)国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽(ねが)はず、偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず、一向念仏者、法華等の結縁を作すをば往生の障りと成ると云ふ、故に捨離の意を生ず。此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗()めざれば威光勢力有ること無く、四天王並びに眷属此の国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已()はんぬ。故に正嘉元年に大地大いに震ひ、同二年に春の大雨に苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯らし、秋の大風に果実を失ひ、飢渇(けかち)(たちま)ち起こりて万民を逃脱せしむること金光明経の文の如し。豈選択集の失に非ずや。仏語虚しからざる故に悪法の流布有りて既に国に三災起これり。而るに此の悪義を対治せずんば仏の所説の三悪を脱るべけんや。

 

当時の、多くの民を苦しめていた続発する自然災害について、日蓮は「源空の専修念仏、選択集の教えが充満し、衆生は日本国の法華・真言等を聴聞せず、尊重せずとなり、一国守護の諸天善神は法味に飢えて国を捨て去ってしまう。その為に、大地震が起き、春に大雨が降り、夏には大旱魃となり、秋に大風も吹いて飢饉により万民が死の淵に追いやられることとなる。故に源空の悪義を退治しなければならない」とするのである。ここでも法華と真言を並列表記して同等に捉えており、特に念仏を重んじて法華・真言両経を蔑にするところから天災地変が盛んになるとしているところに、この時の「法華・真言未分」の思想が如実に表れているといえよう。

 

この後の「末代の凡夫の為の善知識を明か」(P119)す箇所に於いて、それは人ではなく、「所謂法華・涅槃是なり」(P123、以下も同頁)と即ち経典であるとしているが、「人を以て善知識と為す」という「常の習ひ」に対して、「法を以て知識と為す」「経巻を以て善知識と為す」という法・経典を中心、善知識とする「依法不依人」が日蓮の修学研鑽、「法門申しはじめ」、弘法、その後の受難という彼の一生を貫く精神的支え、多くの場面での思考の基軸となっているように見られるのである。「一人として答へをする人なし」(善無畏三蔵抄)「人はおしへず」(本尊問答抄)頼るべき人が少なかった修学期、日蓮は経典をむさぼるように読破したであろう。その時に支えとなり、灯明となり、弘法への具体的行動を促したものは経典を通しての教主・釈迦仏との対話であった。十数年に亘る、人知れぬ、日蓮と釈迦仏との直接の対話がなされていたのではないだろうか。「依法不依人」にこそ日蓮の原点があり、「法門申しはじめ」に至る思考の基軸となり、この言葉により命に及ぶ難すらも「値難は法華経の予言どおりのこと」となり、「法華経身読」の法悦にまで日蓮の内面世界は昇華されていったように思う。

(私としては、日蓮の内面では涅槃経の「自灯明」「法灯明」の灯が輝いていたと思っている)

 

日蓮にとっては「普賢菩薩勧発品第二十八」に記された「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」との文により「法華経は釈迦牟尼仏」となるのであり、法華経読誦による釈迦との対話が何回となく繰り返されたことであろう。故に「法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り」(P123)、対して「此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり」()と、「法華経信仰」により二千二百余年という時空間を越えての釈迦仏との邂逅が実現する、と教示したのではないだろうか。

 

このように日蓮の法華経信仰というものは「法華経による釈迦仏直参信仰」とも言え、その骨格は「依法不依人」であるといえるだろう。

 

(4)―2 法華真言未分について・四十余年未顕真実

【 日蓮に法華真言未分はないとの指摘 】

「守護国家論」の文末は以下のようになっている。

 

無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ。涅槃経に云はく「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因って法利を得ると知れば、宜しきに随って方便して則ち為に之を説きたまふ」と。又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」已上。是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。是皆人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為なり。而るに何の恃(たの)み有りて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや。今権教の情執を捨てゝ偏に実経を信ず。故に経に就いて信を立つと云ふなり。問うて云はく、善導和尚も人に就いて信を立て、行に就いて信を立つ。何の差別有らんや。答へて曰く、彼は阿弥陀経等の三部に依って之を立て、一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之を立つ。故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ。(P135)

 

これを解釈して、

「四十余年の諸経」は、本来は「人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為」に説かれたものであり、それらは「未顕真実」の経典であり、そのような爾前権経に執着するのは「虚妄・方便・不了義経・魔説」に従うこととなってしまうのである。日蓮に法華真言未分などというものはなく、この時点でも真言を四十余年未顕真実の経典に含めて破折されているのである。

との指摘がある。

 

要は、

四十余年未顕真実」「虚妄・方便・不了義経・魔説」とされる中に真言も含まれており、この時期に日蓮は真言を破しているのだ。

との見方である。

 

果たしてそうであろうか・・・・。 

 

【 法華涅槃、法華真言 】

日蓮が文末で主張したことは「法華経最第一また涅槃経にも依るべし」ということであり、これは文末のみならず、当書の随所に見受けられるものである。

 

「願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てゝ、法華涅槃の現文に依り、肇公(じょうこう)・慧心の日本記を恃(たの)みて法華修行の安心を企てよ」(P129)

「法華涅槃を信ずる行者は余処を求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり」(P129)

「智儼(ちごん)・嘉祥(かじょう)・慈恩・善導等を引いて徳を立て難ずと雖も法華涅槃に違する人師に於ては用ふべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり」(P134)

「四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明したまふ。故に之を信ずべし」(P135)

 

一方では「法華・涅槃・大日経等は了義経なり」として、法然房源空が「選択本願念仏集」を著し、専修念仏を勧奨したことによる罪を糾弾しながら、法華と真言を同列に記すのである。

 

「法華真言の直道を閉ぢて浄土三部の隘路を開く」(P89)

「法華・真言の結縁を留む」(P104)

「山門(比叡山)・寺門(園城寺)・東寺(東密)・天台並びに日本国中法華・真言等を習ふ諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる」(P104)

「人をして法華・真言を捨てしめん」(P106)

「国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作(した)(P106)

(人々は)法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽(ねが)はず」となった。(P117)

「偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず」(P117)

 

これらを見ると、文末の記述を以て「日蓮は真言を破折している」と結論してしまえば、文中での「法華真言未分・並列表記」の解釈のしようがなくなってしまう。ここでは、慎重に「法華真言の結縁」などと記した「当時の日蓮の思考」を読み解いていくことが必要とされると思う。

 

そこで、論者提示の該文だけではなく、その前から読み進めてみよう。 

 

【 「四十余年未顕真実」引用は阿弥陀経の釈迦一代教説上の位置を示したもの 】

まず結論から記すが、前から読むと浄土教の依経たる浄土三部経「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経」の内、特に阿弥陀経を挙げて法華経と対比させ、結果、阿弥陀経を捨てて法華経に信を立てるべきことを説示する文脈となっている。故に「無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ」「四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」とされていても、それは阿弥陀経に向けられた指摘と理解できるのである。

 

この段落は「問うて云はく、釈迦如来の所説を他仏之を証するを実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。答へて云はく、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之を信ぜず。」との問答から始まる。

 

「四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。」と、四十余年の範疇にある阿弥陀経に依ってはいけないと教示。対して「今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明したまふ。故に之を信ずべし。」と法華経・涅槃経への信を勧奨。

 

続いて「阿弥陀経の説は無量義経の未顕真実の語に壊れ了んぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。」と諸仏の証明のない阿弥陀経は、無量義経の四十余年未顕真実との語で破折されてしまうとする。

 

その次が経典に対する信仰を教示するものであり、「皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」と阿弥陀経はこれらに分類されることを指摘して、「是皆人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為なり」と釈尊四十余年の教説には化導の次第があり、四十余年未顕真実の範疇にある阿弥陀経を捨てて法華経、涅槃経への信を説くのである。

 

「而るに何の恃み有りて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや」ここまで明らかであるのに、何故に阿弥陀経により成仏得道を期するのか、と指摘。次に「経に就いて信を立つと云ふ」ということは「権教の情執を捨てゝ偏に実経を信ず」べきことであると示す。

 

最後に問いを設けて「善導和尚も人に就いて信を立て、行に就いて信を立つ。何の差別有らんや」と「信を立てる」ということならば、「中国浄土教の善導も人について信を立て、行について信を立てている、法華経と何の差別があるのか、違いなどない」と疑問を提示。それに対しては「彼は阿弥陀経等の三部に依って之を立て」善導は阿弥陀経等の浄土三部経によって信を立てているのであり、「一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之を立つ」と釈迦一代の教説について「了義経・不了義経」の立て分けをしていないのである、と指摘する。

 

そして「故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ」と、釈迦一代教説の第一たる実経、法華経・涅槃経に対して、浄土教の人が阿弥陀経などを依経として論難しても、かえって経典の位置付けが露見してしまうのである、としている。

 

このように論者指摘の箇所は「阿弥陀経対法華経・涅槃経」問答であり、阿弥陀経の釈迦一代教説上の位置を示すために「四十余年未顕真実」「四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」としていることを認識すべきだろう。

 

該文は真言宗を直接、指し示したものではなく、浄土教指弾の為の論の組み立てとなっているのであり、「四十余年」云々と記した日蓮の脳裏では「四十余年=浄土教」となっていたのである。故に冒頭よりの「法華真言並列表記」はそのまま生かされており、「守護国家論」執筆時の日蓮の思想は「法華真言未分」であったといえるだろう。 

 

【 「守護国家論」執筆の目的は法然浄土教批判 】

そもそも日蓮が「守護国家論」を著述した動機は、同書に記されているように相次ぐ天災地変にあった。

 

此の経文を見るに、世間の安穏を祈らんに而も国に三災起こらば悪法流布する故なりと知るべし。而るに当世は随分国土の安穏を祈ると雖も、去ぬる正嘉元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風苗実を失へり。定めて国を喪すの悪法此の国に有るかと勘ふるなり。(P116)

 

吾妻鏡に「戌尅、大地震。有音、神社佛閣一宇而無全。山岳頽崩、人屋顛倒、築地皆悉破損、所々地裂、水涌出。中下馬橋邊、地裂破、自其中、火炎燃出、色青」と記録されることとなった正嘉元年(1257)の大地震。翌正嘉2年(1258)8月の大風雨により諸国の田園が損亡し大飢饉となったこと。これら相次ぐ自然災害の根本原因として「国を喪すの悪法此の国に有る」と考え、それこそが法然浄土教であるとして根底から批判したのが「守護国家論」なのである。

 

日蓮はそのことを、序文で以下のように記している。

 

予此の事を歎く間、一巻の書を造りて選択集の謗法の縁起を顕はし、名づけて守護国家論と号す。願はくは一切の道俗、一時の世事を止めて永劫の善苗を種ゑよ。今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。

 

「守護国家論」という「一巻の書を造」ったのは「選択集の謗法の縁起を顕は」す為なのであり、それは同時に、法然浄土教を捨てて帰すべき正法・法華経に依ってこそ衆生救済と国土の安穏が保たれることを明かすことでもあった。

 

問うて云はく、諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき証文如何。答へて云はく、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云はく、「我が所説の経典無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」云云。文の意は一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまひしなり。(P102)

 

そして日本国は法華経流布の国であるとするのである。

 

問うて云はく、日本国は法華・涅槃有縁の地なりや否や。答へて云はく、法華経第八に云はく「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。七の巻に云はく「広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と。涅槃経第九に云はく「此の大乗経典大涅槃経も亦復是くの如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布すべき処なり。

中略

願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てゝ、法華涅槃の現文に依り、肇公(じょうこう)・慧心(えしん)の日本記を恃(たの)みて法華修行の安心を企てよ。(P128)

 

このように本書執筆の目的は法然浄土教批判、法華経の受持勧奨であり、文末の四十余年」が指し示すのは「国を喪すの悪法」即ち浄土教と理解できるのである。更にわざわざ真言を文の表に出して「法華真言の直道」「法華・真言の結縁」としたところに、日蓮の「法華真言未分」の思想が明瞭に出ているといえるだろう。

 

以上、正元元年(1259)当時の日蓮の釈迦一代教説に対する認識は「法華経最第一、涅槃経に依る」べきではあるが、真言=密教は別物、別格だった、一目置いていたと言える。

 

尚、「守護国家論」は正嘉3年・正元元年(1259)の系年とされているが、翌文応元年(1260)の「立正安国論」では前に見たように、日蓮は念仏に対して「天台法華宗復興」「大乗仏教再興」の立場を鮮明にしており、安国論前年の「守護国家論」において「法華真言未分」「法華真言両義併存」であったとしても、なんら不思議はないのである。 

 

【 法華真言未分について・修学期の真言認識 】

続いては、「本尊問答抄を読めば、日蓮は修学時代から真言を破折せんとしていたのであり、法華真言未分ということはない」との指摘がある。

 

真言宗と申すは一向に大妄語にて候が、深く其の根源をかく()して候へば浅機の人あらは()しがたし。一向に誑惑せられて数年を経て候。先づ天竺に真言宗と申す宗なし。然るにありと云云。其の証拠を尋ぬべきなり。所詮大日経こゝにわたれり。法華経に引き向かへて其の勝劣を見るの処に、大日経は法華経より七重下劣の経なり。証拠は彼の経此の経に分明なり此に之を引かず。(P1581)

 

ここでは、「真言宗というのは大妄語の宗であり、その邪義の根源を深く隠しているので機の浅い人は容易には顕し難く、数年間は完全に誑惑されていた」云々と、真言の邪義の根の深さを指摘している。

 

この文の前文では「然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狹郡東条郷片海の海人が子なり。生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし。然るに随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり。人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合はせたるに」(P1580)と自身の誕生、清澄登山、出家、修学を回想しており、続いて「倶舎宗は」「成実宗は」「律宗は」「法相宗は」「三論宗も」「華厳宗は」「浄土宗と申すも」と諸宗の誤れる所以を順に記している。次に該文の「真言宗と申すは」と真言批判へと続くのである。

 

ただ、これらを以て「修学期から真言破折」云々というのはどうであろうか。

 

もし、その指摘の通りならば、先に記したような正嘉3年・正元元年(1259)の「守護国家論」での法華真言未分・法華真言両義併存の記述、正元2年(1260)2月の「災難対治抄」での大乗仏教衰微への嘆き、(同年に改元して)文応元年(1260)7月の「立正安国論」での法然浄土教に対する比叡山=台密、大乗仏教復興の主張というものも書かれないことになるだろう。

 

事実は、青年期には「天台宗・台密の日蓮」だった。彼は修学、「法門申しはじめ」、法華経の弘教、題目の弘法、受難を経ながら蒙古襲来前夜に至り密教批判へと舵を切っていくのであり、該文は弘安元年(1278)の書状中での記述であることを踏まえれば、青年時代の回想と後年日蓮の内面で定着した「真言宗と申すは一向に大妄語」との批判的認識が重なり合い、かくなる表現になったと考えられるのである。

 

修学期から「法門申しはじめ」以降暫くは日蓮の念頭に密教批判がなかったということは、文応元年(1260)に系年される中山法華経寺蔵の「立正安国論」(P209・奥書には「文永六年太歳己已十二月八日写之」とある・定P443)は法然浄土教批判に重きが置かれていて本格的な東密批判はなく、建治・弘安の交(1278頃)に系年される「立正安国論・広本」に東密批判の意図が見られることからも裏付けられると思う。

 

「立正安国論・広本」の第五問答では、法然浄土教を批判する過程で「具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論の邪義にも超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峰末教の悪見にも勝出せり。大慢婆羅門の蘇生か、無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離せよ。破仏法の因縁・破国の因縁の金言これなり」(P1466)と慈恩(中国唐代の僧・法相宗を起こす)の「三乗真実一乗方便論」と共に弘法に対しても望後作戯論と批判。更に光宅寺法雲(中国梁代の学僧)の「涅槃正見法華邪見論」や、法蔵(中国唐代の華厳宗第三祖)の「華厳本教法華未教論」に対しても批判を加えながら、続いて専修念仏の法然浄土教を糾弾している。

 

第九問答の問い(旅客の了解)では「法水の浅深」の後に、「顕密の浅深」(P1474)「真言・法華の勝劣を分別」()即ち法華経と真言の勝劣を究める旨が記され、「一乗の元意を開発」()法華経弘通の意が強調されている。この執筆年の異なる「立正安国論」と「同・広本」での記述の変化により、日蓮の東密に対する認識は次第に変化し批判的になっていくことが窺えると思う。

 

振り返れば、「本尊問答抄」の以下の文のように、日蓮自身も修学期は「数十万の寺社」の中の一寺院の僧だったのであり、かつ「法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従なり」との思考を「法門申しはじめ」以降もしばらくの間は持ち続けていたように思われるのである。自ら経験しているが故のリアルな表現ではないだろうか。

 

然れば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗なり。たまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従なり。若しは兼学の人も心中は一同に真言なり。座主・長吏・検校・別当、一向に真言たるうへ、上に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり。されば日本国、或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。(P1580)

 

このような「口には法華最第一とはよめども・・・」の修行者が多い中にあって、日蓮は「立正安国論」の進呈以降、鎌倉の草庵を襲撃され続いては伊豆へ配流、そして文永元年(1264)11月には生地の安房の国、東条松原で地頭・東条景信一行に襲撃される難、即ち法華経弘通故の難を蒙ることによって、「いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく『而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや』と。第五の巻に云はく『一切世間怨多くして信じ難し』等云云。日本国に法華経よみ学する人これ多し。人のめをねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。」(P327 南条兵衛七郎殿御書 真蹟断片)と「持経者」から「行者」としての自覚を持つに至るのである。

 

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