4 虚空蔵菩薩より大智慧を賜った日蓮

(1) 前項の真蹟遺文、高弟写本より判明すること

日蓮は12歳で清澄山に入山したものの、遠国である上に、修学の人はなかった。

 

当時の清澄寺は、中古天台観心主義の影響圏内であり、日蓮も修学の一環であろう、関係の文献を書写していた。

 

日蓮は世の人に随って、南無阿弥陀仏を唱えた。また、念仏の法門は178歳の時より学んでいた。

 

日蓮は幼少の頃より、諸宗の一切の経を修学する。人から教わり、自己研鑽を重ねた。そして、顕密二道の中の勝れたる経を、生死出離の教えを求めて、真言密教=東密を学んだが、問いに応えてくれる人はいなかった。

 

幼少の時より、清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈願をしていた。

 

虚空蔵菩薩は日蓮の眼前に高僧となって出現し、明星の如き智慧の宝珠を授けてくれた。

生身の虚空蔵菩薩より大智慧を賜った。

 

そのおかげもあり、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱を粗(ほぼ)、うかがい知るところとなった。

 

以上となるだろうか。

 

(2)  虚空蔵菩薩への祈願

① 少年日蓮の原体験と求道の旅

 

少年日蓮の虚空蔵菩薩への祈願について、弘安2916日の「寂日房御書」(P1669)には、

 

日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん。

 

と記されているところから「日蓮が虚空蔵菩薩への祈願により悟達を得たのならば、日蓮は御本尊を顕わす必要はなく、虚空蔵菩薩への祈願を勧めればいいことになる。現実には、日蓮は御本尊を顕わし門下に授与しているのである。故に、日蓮は自解仏乗を虚空蔵菩薩に仮託されたにすぎない」との説があるが、どうであろうか。

 

まず、私の考えを記したい。

 

少年日蓮は宗教的体験をした。それは虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を授かるというものであり、これが原体験になった。これは青年日蓮時代の活動の原動力ともなり、修学・修行に精進し、遂に一切経の勝劣を知り、法華経最第一の真理、専修題目の修行法を編み出すに至った。

 

その過程で、諸仏・諸菩薩にも祈請を重ねており、それは「本尊問答抄」に「随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり。人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合はせたるに」とある通りで、青年日蓮は釈迦如来、多宝如来、上行・無辺行・浄行・安立行等の四菩薩、文殊師利菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩、不動明王、愛染明王、持国天王、増長天王、広目天王、毘沙門天王の四天王、 日天子、月天子、明星天子の三光天子、天照太神、八幡大菩薩等、様々な仏菩薩に祈請したことであろう。

 

即ち少年時の虚空蔵菩薩との邂逅を原体験として、各方面への修学を重ね、比叡山では経典に没入して諸宗の勝劣を知るところとなった。これら全てを含めて、

虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし」

と表現したのではないだろうか。僅か一二行で表されてはいるが、ここに十数年来の、日蓮の求道の旅が込められていると思うのである。

 

② 虚空蔵菩薩求聞持法を修する青年日蓮

 

明徳3年の清澄寺鐘銘に「房州千光山清澄寺者慈覚大師草創」とあるように、清澄寺は天台宗・円仁草創の寺院であり、日蓮が修学した1200年代は「阿闍梨寂澄自筆納経札」により、六十六部如法経納入の寺院、虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場だったことが窺える。

 

知恵、知識、記憶力の増進をもたらす虚空蔵菩薩を念じて山に籠り、それらを成就する修行法が虚空蔵菩薩求聞持法である。このような寺院内の環境に日蓮が無縁だったとは思えず、膨大なる経典群に取り組もうとする若き求道僧であるならば、知恵、知識、記憶の増進を願い、求聞持法を修したと考えるのは自然ではないだろうか。

 

しかも日蓮は、「法門申しはじめ」以降も「天台沙門日蓮」「根本大師門人 日蓮」と名乗っており、天台僧としての自覚を持っていることが窺え、(文永8年以降は次第に台密批判へと移行していくが)出家当時の青年時代には、天台僧の自覚は更に横溢していたと思われる。そのような観点からも、「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく」との表現の中に、文字通り、少年日蓮の虚空蔵菩薩への祈願と、続いては出家後の台密の若き修行僧として、虚空蔵菩薩求聞持法に励む日蓮の姿が浮かんでくるのである。

 

また、日蓮自らの記述でも、

17歳の時には「授決円多羅義集唐決上」を書写して中古天台観心主義を学ぶ。

・「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門」について「十七八の時より」学習していた。

・「顕密二道の中」の勝れたる経典、「生死」出離の教えを求めて「真言の秘教をあらあら」学んだ。

・「随分」と「諸国を修行して学問し」て歩いた。「たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合はせた」ところ、一切経の高低浅深を知るところとなった。

・「幼少の比より随分に顕密二道」並びに「諸宗の一切の経」を人に習い自己学習した。

・「世の人に随って阿弥陀の名号を持ちし」と、念仏も唱えた。

と、清澄寺で、諸国での修行・学問で、後に批判することとなる念仏を唱え、密教を、諸宗を学んでいたことを述懐している。釈尊の真実を求め、修学した故に仏教各派の修行も成したのであり、この中に自らが出家した寺院である、清澄寺での虚空蔵菩薩への祈願があり、更には虚空蔵菩薩求聞持法が含まれていると考えるのである。

 

③ 青年日蓮の胸の内には虚空蔵菩薩が生き続けていた

 

繰り返すが、前記遺文をまとめて考えてみたい。

日蓮は幼少の時より虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈願していたのであり、その願い、求めを成就すべく、清澄寺から始まり諸国を渡り歩き、修行して学問し抜いた。

顕教、密教、様々な宗派を学び修したが、清澄山、比叡山、その他の寺院でも人に恵まれることはなく、自らの努力を重ね、遂には一切経の大綱・勝劣を知るところとなったのである。

 

一切経の勝劣など思いもよらない、幼き日の発願・決意が「虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へ」であり、その後の修学・修行を経ての努力の結果が「日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ」(善無畏三蔵抄)、「一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(清澄寺大衆中)となった。この結果に至る努力の過程を含めて「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」(善無畏三蔵抄)、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき~不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて」(清澄寺大衆中)と、幼少時の原体験と重ね合わせて表現したものと考えるのである。

 

天台の青年僧として一途に努力を重ねた日蓮の胸中には、少年時代、虚空蔵菩薩に向かって立てた大いなる願い、純粋なる決意が失われることなく、赤々と燃えていたであろう。願いと決意が絶やされなかったということは、日蓮の胸の内には虚空蔵菩薩は生き続けたのである。「それは密教の菩薩であって一応のことであり、法華至上の思想以降は有り得ない」云々との説もあるが、日蓮は「法門申しはじめ」以降も暫くは「法華真言未分」であり、密教の菩薩に一目置いていてもなんらおかしいものではない。また、別角度だが、今日的な宗教認識で区分するものというよりも、我々が抱く宗教的な意味合いを超越した、少年日蓮、青年日蓮の「誓願の象徴」という意味での虚空蔵菩薩でもあったのではないだろうか。その宗教的誓願と体験、修学・修行、祈願結実成就の様を、生身の虚空蔵菩薩より「大智慧」「明星の如くなる大宝珠」を賜った、と表現したと考えるのである。 

 

(3) 神仏と感応道交する人間

周知のとおり、鎌倉時代は今日のような科学、文明というものは発達しておらず、朝廷・公家、幕府の高官から万民に至るまで、現代よりもはるかに宗教的な思考をする人間であった。「吾妻鏡」に記されているように、彗星が見えれば「変気の御祈り」「変災の御祈りに依って鶴岡に於いて臨時の神楽有り。将軍家御参宮。」そこでは「呪願文」を唱える。蒙古の国書が来れば、朝廷は「蒙古調伏祈願のため22社へ奉弊使を遣わす」。天変地異、災害が相次ぎ、戦乱も起きれば、なす術もない人間の心理というものは、宗教的な意味合いを作ることにより、そこに救いを見出さざるを得なかったことであろう。

 

日蓮の「立正安国論」冒頭では、打ち続く自然災害、疫病を「天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る」(P209)と記述し、被害の惨状を「牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」と描写している。

            立正安国論
            立正安国論

そして神仏に頼る様相を

或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専らにして西土教主の名を唱へ、

或は衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の願を恃(たの)みて東方如来の経を誦し、

或は病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇め、

或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、

有るは秘密真言の教に因って五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ、

有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、

若しくは七鬼神の号を書して千門に押し、

若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、

若しくは天神(ちぎ)を拝して四角四堺(しかい)の祭祀を企て

と記しているのである。

 

そのような時代である。

 

少年日蓮の願いに応じる如く、虚空蔵菩薩が眼前に高僧と現れて、明星の如き智慧の宝珠を授ける。日蓮は右の袖に受け取る、という宗教的体験はあったことであろう。

 

今日の思考では「不可思議」とか「神秘的」「霊的」などと評され、「そんなバカな」と一笑に付されるかもしれない。もちろん、科学的にそれを証明することなどはできようもないが、誰あろう、日蓮自らが遺文に記していることなのである。今日の思考に日蓮を持ってくるのではなく、思考する者が日蓮の時代に立ち返らなければ、見方を過つことがあると考えるのである。もちろん、日蓮だけを通して鎌倉時代を見るのではなく、鎌倉時代とその前後を知りながら日蓮を見てもいかねばならないだろう。

 

この宗教的原体験は、祈願している時であったかもしれないし、夢想であったかもしれない。その後の修学、修行に励む青年日蓮の思いの根底には、幼少の時に虚空蔵菩薩より宝珠を授かった原体験があり、青年時代の精進の意味も含んでの該表現ではなかったかと考えるのである。 

 

(4) 神仏の啓示による時代

ここで参考に記したいのが、日蓮が誕生する以前、1201年・建仁元年春頃の、京都・六角堂で親鸞が体験した夢の啓示である。

 

当時、比叡山を下山した29歳の親鸞は後生の大事に苦悩。思い悩んだ彼は、京都中心部にある聖徳太子建立と伝えられる六角堂にて百日間の参籠を行い、本尊の救世観音に必死に祈念する。95日目となる45日の早暁、救世観音が白袈裟を着けた僧形となって示現し、親鸞に一つの言葉を授ける。

 

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

 

行者がこれまでの因縁・宿業により女性と関係をもつことになろうとも、私が美女となって行者との関係を受ける身となりましょう。一生の間、行者を守護して、行者の死に際しては引き導いて、極楽に生まれるようにいたしましょう。

 

この言葉を授けた救世観音は次に「私の誓願を一切衆生に説き聞かせるのです」と告げて、親鸞は幾千万の人々にこのお告げを伝えた、と思われた時に夢告より覚めるのである。

 

色と欲に振り回されながらも色と欲がありてこそ、生ずる人間。色と欲からは離れ切ることができない人間。この人間存在の根源にまつわる長年の苦悩について、人間とはあるがままの姿でも救済の道があることを、この夢告の中に親鸞は見出した。彼は直ちに六角堂を飛び出して東山吉水の草庵に住する法然のもとを訪ね、専修念仏の教えを聞いて入門するのである。

 

親鸞にはこれ以前にも1191年・建久2912日、河内の国磯長(しなが)にある聖徳太子廟(現在の叡福寺・真言宗系単立、大阪府南河内郡太子町太子)にて参籠した時の聖徳太子の夢告がある。更に1200年・正治212月、比叡山・無動寺の大乗院にて参籠した時の、如意輪観音の夢告というものがある。そして、師の法然には「法然上人御夢想記」という自身の夢想を綴った記録が存在している。

 

⇒以上、親鸞に関する通説に基づき記述。詳しくは「親鸞の聖徳太子信仰について」を参照。

 

鎌倉北条氏の始祖とされる北条時政も、神仏の啓示を受けた一人である。「太平記」巻五の「時政江ノ島に参籠の事」では、北条氏繁栄の因は北条時政の前世の善行にありとして、彼が江ノ島弁財天の啓示を受けたことを伝えている。

 

時政江ノ島に参籠の事

時已に澆季(げうき)に及んで、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落ちて度々に及べり。然れども天道は必ず盈()てるを虧()く故に、或いは一代にして滅び、或いは一世をも不待して失せぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此の事故有るなり。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政江ノ島に参籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(21日目)に当りける夜、赤き袴(はかま)に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来たって告げて曰く、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書写して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依って、再び此の土に生まる事を得たり。去れば子孫永く日本の主と成って、栄花を誇る可。但し其の挙動、違う所あらば、七代を過ぎざる可。吾が言う所不審あらば、国々に納めし所の霊地を見よ。」と云い捨てて帰り給う。其の姿を見ければ、さしも厳しかりつる女房、忽ちに伏長、二十丈許りの大蛇と成って、海中に入りにけり。其の迹を見るに、大きなる鱗を三つ落とせり。時政、所願成就しぬと喜びて、則彼の鱗を取って、旗の文にぞ押したりける。今の三鱗形の文是れ也。其の後、弁才天の御示現に任せて、国々の霊地へ人を遣はして、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替へて、奉納の筒の上に大法師時政と書きたるこそ不思議なれ。されば今相模入道七代に過ぎて一天下を保ちけるも、江ノ島の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過ぎ、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯かる不思議の振舞いをもせられける歟とぞ覚えける。

 

< 意訳 >

前略

鎌倉幕府草創の頃、時政は江ノ島に参籠して子孫繁栄を祈願した。21日目の夜、赤い袴(はかま)に青い裏の着物を着た、美しい女房が時政の前に現れて告げた。「お前の前世は箱根法師である。六十六部の法華経を書写して、六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの伊豆の地に生まれることができたのだ。お前の前世の善根により子孫は永く日本の主となって、栄華を誇るであろう。ただし、正しい行いをしなければ、子孫の栄華は七代以上続くことはない。私が言うことに不審を持つならば、諸国の霊地を調べてみなさい」と言って帰り去った。不思議に思った時政がその姿を追うと、女房はたちまち二十丈(1丈=約3.03m、20丈=約60)の大蛇となって海中へと姿を消してしまった。女房がいた跡を確認すると大きな鱗が三つ落ちていて、時政は「所願は成就した」と喜んでその鱗を取り自らの旗の紋とした。今の北条氏の三鱗紋の形が即ちそれである。女房は江ノ島弁財天の御示現であったのだが、時政はそのお告げを確認するために、諸国の法華経奉納の霊場へ使者を派遣して調べたところ、俗名の時政を法師の名に変えた「大法師時政」と書かれた奉納筒が発見されたのは不思議なことである。今、北条氏は七代を過ぎても尚天下の権を握っているのは江ノ島弁財天の御利益である。または北条時政の過去の善根によるものであろうか。今の北条高時は七代を過ぎて九代目となったが、いよいよ亡ぶべき時が到来したので、様々な不思議な行いをしているのではないかと思われるのだ。

 

この時代、人は神仏と感応道交し、その啓示を求めて社寺に参籠することが身分の上下、僧俗問わず活発に行われ、各地の社寺仏閣や書物には参籠にまつわる夢想、お告げ、物語が残されていくことになる。神仏からの啓示というものが、「一つの新たなるものを創り上げる力の源泉」「無から有を生み出す根源」「現実を変革していく原動力」となっていた時代に日蓮は生きていたのである。

 

(5)  自解仏乗・虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を授かる

話を戻すが、自解仏乗は「自ら仏乗を解(げ)す」と読み、他者から教示されることもなく、自ら仏法の深義、仏の境智を悟ることを意味するが、「寂日房御書」については、真蹟のない写本であることをまず認識すべきであろう。

 

次に考えたいのは、「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」の前文には「勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人読めり」とあるのだが、その「日蓮一人読めり」との結果の原因はどこにあるのだろうか。結果としての「日蓮一人読めり」の出発点は、何であろうか。何によってもたらされたものなのだろうか、ということである。

 

「虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へ」との少年日蓮の大いなる祈願に応じて「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」との体験があった。

 

これが日蓮の宗教的出発点であり、その後の法華経最第一の弘経、題目の弘法、権力者への諌暁、忍難弘通、蒙古襲来という国難を経ての台密からの精神的、思想的独立を果たし、新たなる仏教としての「本門の三つの法門」(法華取要抄・定P818)の展開となるのだから、始めに自解仏乗ありき、ということは考えられないだろう。日蓮は「法華経・題目伝道の僧」として順を追って成長し、その法門も次第に成熟、豊穣なるものとなっていくのである。

 

また、日蓮は「此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども」(清澄寺大衆中 真蹟曽存 定P1134)と身命に及ぶ難は必定と覚悟した上で、建長5328日に「安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面」()に於いて、「浄円房と申す者並びに少々の大衆に」()対して「これ」即ち法華経最第一の思想の開陳、法華勧奨を成したのは「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがため」()であったとしていることには注目すべきであろう。ここに、日蓮の虚空蔵菩薩への一方ならぬ思いが記されているのではないだろうか。

 

立教より23年後の1276年・建治2(または文永12)正月の「清澄寺大衆中」に、回顧する中で「虚空蔵菩薩の御恩」を記したということは、「虚空蔵菩薩より授かった智慧の宝珠」が日蓮の一生を通して正に、明星の如き輝きを放っていたことを意味しているのではないか。

 

日蓮は虚空蔵菩薩に祈願して智慧の宝珠を授かり、虚空蔵菩薩への報恩のために清澄寺で初めて法華経最第一を説き、以来、「或は所を追ひ出だされ、或は流罪()との迫害にも屈せず、退転することなく歩み続けたのである。

 

今日の宗派内での「日蓮の教義的位置付け=本仏等」を前提にして、そこから日蓮の一生の分析をしても、今日の宗義・思考・視点に日蓮を呼び戻してしまう。それでは宗派の思想・信条の枠内に、日蓮を押し込めてしまうことになる。やはり、宗派教学は横に置き、日蓮の時代に立ち返ることから思考を巡らすべきだと考えるのである。 

 

(6)  自解仏乗・日蓮は「使い」であり「法華経」「釈迦如来」を超越するものではない

日蓮信仰圏の一部では当書の「自解仏乗」を本仏論に援用しているけれども、「寂日房御書」の文中では、「日蓮は日本第一の法華経の行者」と宣言し、その故は「すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」だからであり、「八十万億那由他の菩薩は口には宣べたれども修行したる人一人もなし」と口ではなく、法華経の経文通りに行じたことを以て「読めり」としているのである。日蓮による自己の仏教上の位置付けは「本仏」ではなく、「法華経の行者」なのである。

 

 

そして、「不思議の日蓮」の「父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人」といえるだろうとし、「父母となり其の子となるも必ず宿習」と説く。それは日蓮と父母が親子の縁を結んだのも、過去世からの深き繋がりによるものであり、日蓮の両親は善業により「日本第一の法華経の行者」の親となることができたからである。

 

次の一節では「若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ひならば父母あに其の故なからんや」と記している。これは「もし日蓮が法華経と釈迦如来の使いであるならば、父母にもどうして深い宿縁がないことがあろうか」としているのであり、日蓮は「法華経と釈迦如来の使い」という仏教上の使命を明示していることに注目すべきだろう。即ち、日蓮は「使い」なのであり、「法華経」「釈迦如来」を超越するものではない、ということになる。

 

このような日蓮と両親の関係は、法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる「妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し」(浄蔵・浄眼の二王子は両親・妙荘厳王・浄徳夫人を仏門へと導く)であり、釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給ふか」釈迦仏・多宝仏が日蓮の父母となったかのようであり、「然らずんば八十万億の菩薩の生まれかわり給ふか」そうでなければ、八十万億の菩薩が生まれ変わったのであろうか、「又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か」上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹だろうかとして、これについて「不思議に覚え候」とする。

 

日蓮は更に続ける。

 

「一切の物にわたりて名の大切なるなり」

一切の物にわたって「名」というものは大切なものである。

 

「さてこそ天台大師、五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり」

故に天台大師は五重玄義の初めに名玄義を解釈した。

 

「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」

私が「日蓮」と名乗ることは自解仏乗ともいうべきである。

 

「かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん」

このように言えば利口げに聞こえるだろうが、道理の指すところ、そういうこともあるだろう。

 

「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と此の文の心よくよく案じさせ給へ」

法華経如来神力品第二十一に「日や月の明かりが能く諸々の幽冥を除くように、この人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅することでしょう」とあるが、この文の意味をよくよく考えるべきである。

 

日蓮は自らの「日蓮」との名乗りの依拠として、神力品第二十一の「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生」を引用する。

 

この一節を依文として「日蓮は自解仏乗であり、師なくして悟った本仏である」との説がある。しかしながら前段までにおいて、既に自己の仏教上の位置付けを「法華経の行者」「法華経・釈迦如来の御使ひ」としていることを踏まえた上で、当該箇所は読むべきであろう。

 

日蓮は「法華経・釈迦如来の御使ひ」として法華経・題目を弘法し、大難を受けた後、自己は「日本第一の法華経の行者」であると確信したのであり、法華経を色身で真に読んだのは「日蓮一人読めり」「一人もなし」なので他にはいない。そのような宗教的確信、高揚感、更には「仏の使い」という自己の使命を覚知した境地からの「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」という一表現であった、と考えるのである。

 

青年期の日蓮はこれまで見てきたように、文字通り師に恵まれずして経典に没頭しながら法華経に説かれる真理を得たのであり、本書の系年とされる弘安29月頃には、その後の伝道活動での熾烈な弾圧を乗り越えた自負心も横溢していたことであろう。このような日蓮独特の内面世界が時にして、かような表現を成さしめたともいえようか。いずれにしても、「日蓮」という名乗りの由来を述べる下りで「自解仏乗とも云ひつべし」としたものであり、自己に関しての本仏論として展開されているものではないのである。

 

続いて読めば、日蓮は「我れ仏なり」という意味で「自解仏乗とも云ひつべし」と記したものではないことが明瞭であると思う。以下の文によれば、日蓮は自己を妙法蓮華経を唱え、広める上行菩薩であることを暗示しながら、更には「上行菩薩の御使ひ」ともしているのである。

 

「『斯人行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり」

「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩が末法の始めの五百年に出現し、南無妙法蓮華経の五字七字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇を照らすということである。

 

「日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」

日蓮は上行菩薩の使いとして、日本国の一切衆生に法華経最第一の説示をなして、受け持てと勧めてきたのはこのことなのである。

 

「此の山にしてもをこたらず候なり」

それは、この身延山に入ってからも怠ってはいない。

 

「今の経文の次下に説いて云はく『我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん』云云」

日蓮は続けて神力品第二十一の次下の文「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑」「我が滅度の後においては、まさに法華経を受け持つべきである。この人は仏道において必ずや成仏するだろうことは疑いない」を引用する。これは、自身は釈尊より付属を受けて法を弘める上行菩薩であることを暗示したもの、また、仏より付属された法によってこそ成仏は叶うことを明らかにした、ということでもあるだろう。

 

中略するが、文末では「法華経は後生のはぢをかくす衣なり」「御本尊こそ冥途のいしゃう(衣裳)なれ」として、「をとこ()のはだ()へをかくさゞる女あるべしや。子のさむ()さをあわ()れまざるをや()あるべしや」と法華経・御本尊を妻・親に例え、釈迦仏・法華経はめ()とをや()との如くましまし候」と釈迦仏・法華経を常時寄り添う妻、我が親ともするのである。

 

以上見てきたように「寂日房御書」で説いていることは、日蓮は教主釈尊の弟子の立場であり、それを「題目の行者」「日本第一の法華経の行者」「法華経・釈迦如来の御使ひ」「上行菩薩の御使ひ」と記すことにより鮮明にして、ある夫人に対して(弟子檀越に対して)法華経・御本尊への確信を深め、「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥なり」と、日蓮の成したような法華経伝道を行うよう勧めている、ということなのである。

 

 

※本書の背景としては、ある夫人が寂日房に本尊授与を仲介してくれるよう頼み、依頼を受けた寂日房が使者を身延山の日蓮のもとに派遣し、それに対して日蓮が曼荼羅本尊を図顕して夫人の更なる信仰増進を促した書状のようである。 

 

 

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