5 東密、台密と日蓮

修学期から「法門申しはじめ」を経過しての日蓮の遺文には、台密への配慮、評価、期待が散見される。そして法華勧奨、弘法が本格的に展開されるに及んで、権力や旧仏教勢力による身命に及ぶ迫害が加えられるようになり、彼が願った通りに法華経に説示される難を身読することとなるのである。

 

法師品第十

此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや」

「若し此の経を説かん時 人あって悪口し罵り 刀杖瓦石を加うとも 仏を念ずるが故に忍ぶべし」

 

勧持品第十三

濁劫悪世の中には 多くの諸の恐怖あらん 悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん」「悪口して蹙し 数数擯出せられ塔寺を遠離せん」

 

安楽行品第十四

一切世間に怨多くして信じ難く」

 

常不軽菩薩品第二十

悪口罵詈」

「杖木瓦石を以て之を打擲」

 

これら法華経の説示通りの受難を重ねるに及び、文永8年頃より遂には台密からの脱却、日蓮独自の曼荼羅図顕、「本門の三つの法門」(法華取要抄)の展開へと到っていく。ここで少々長くなるが、日蓮と密教の関わりを見ていこう。

 

(1)  「戒体即身成仏義」

1242年・仁治3年、日蓮が21歳の時、安房の国清澄寺で著したとされる「戒体即身成仏義」(P1)には「顕教より密教が勝れる」ことを記している。

真蹟はないが「日祐目録」(写本の部)に見え、日進「本迹事」、日全「法華問答正義抄」第十六にて引文されており、日朝本、平賀本、刊本録内に所収されている。系年は「日奥目録」では「文永3年」に系け、昭和定本では「仁治3年或は文永3年」とされている。また写本によっては「密教より顕教の勝るゝことを」と、意味するところがまったく逆になっているがこれは故意に書き換えたものと考えられる。

 

*要旨

・戒体とは、受戒の時、受者が心中に発得する戒律の根本的基盤となるもの。

・いかなる教えによれば戒体を発得した時、即身成仏できるかを論じた書。

 

・戒について、

一、小乗戒体

二、権大乗戒体

三、法華開会戒体

四、真言宗戒体

の四項目を設ける。

 

一、小乗戒体では、

妙楽大師の「摩訶止観輔行伝弘決」六巻に引かれる「提謂経」の説により五戒が人間の五根・五臓・五体・国土の五方・五行・五味・五星等の根本体であるとし、これは二乗が持つ尽形寿の戒であると説く。

 

二、権大乗戒体では、

「梵網経」の十重戒、「瓔珞経」の十無尽戒も五戒を根本とするが、これらは仏果に至るまで無量劫を経過しようとも不失の戒であるとする。

 

三、法華開会戒体では、

法華経によって開会されれば、九界の衆生の身がそのまま直ちに戒体であると示し、理由として「法華経の悟と申すは此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一と知也」だからであるとする。

この項が四項目中最も長文で、当時流行の浄土教の機教相応の教判に対する批判があり、法華経流布の国に生まれながら法華経不信であるのは謗法であるとしている。

 

四、真言宗戒体では、

真言の戒体は師子相伝によって伝えられるべきであるから、との理由で明文化することを省略。項目に真言宗戒体を列したのは、顕教である法華経の戒体よりも、密教の戒体の方が勝れることを示す為であるとしている。

 

法華経を是の体に意得る則んば真言の初門なり。此の国土・我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土・我等が身を捨てずして、寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此をこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたるなり。真言の戒体は人之を見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は人をして顕教より密教の勝るゝことを知らしめんが為なり。

 

尚、後年のことになるが、日蓮は清澄寺の寺僧に対して身延山に参詣する機会があるならば、東密、天台の教学書を持参して欲しい旨、書籍の借用を求めている。これは建治元年(文永11年)末より機運が高まってきた、真言僧・強仁との公場対決に備えたものと思われる。 この文面によれば、当時の清澄寺の書籍の重厚さ、天台と並び東密の修学が盛んであったことが窺われ、若き日蓮が密教に心を寄せて「顕教より密教の勝るゝ」としたことも首肯できるのである。

 

「清澄寺大衆中」定P1132  建治2(または文永12)1月11日 真蹟曽存 平賀本

(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏(しょ)を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。円智房の御弟子に、観智房の持ちて候なる宗要集か()した()び候へ。それのみならず、ふみ()の候由も人々申し候ひしなり。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たゞさるべき年か。

 

・東密・いずれも空海の著であり真言教学の基本的な書物

「秘密曼陀羅十住心論」十巻・真言密教の体系書

「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)・十住心論の要綱をまとめ示した書

「弁顕密二教論」二巻・顕教と密教を対比、密教の勝れる所以を示した書

 

・天台の書

「摩訶止観」十巻・智顗

「天台法華疏義纉」・智度

「法華天台文句輔正記」・道暹 

 

(2)  「色身二法抄」

1244年・寛元2年、日蓮23歳の時に著されたとされる「色身二法抄」(P1947)の真蹟は伝わらないものの、岡宮光長寺に日春本があり比較的上代の写本。他の写本としては日朝本、本満寺本、三宝寺本がある。本書冒頭では、比叡山の止観業・遮那業について、その修学の大事なることを示している。「境妙庵目録」は1281年・弘安4年、身延山での述作とするも、真言第一思想であることから法華真言未分時代の述作、即ち初期の頃の書とするのが妥当とされる。

 

妙法蓮華経の五字を五智五仏に配当、十界の依正全てを三世不改と説示、色心二法、生死一大事の法門を論じる台密の教義の書である。

 

先づ止観・真言に付いて此の旨を能く能く意得(こころう)べきなり。先づ此の旨を意得(こころえ)ば、大慈悲心・菩提心を意得べし。其の故如何(いかん)となれば、世間の事を案ずるも、猶心をしづ()めざれば意得難し。何に況んや、仏教の道、生死の二法を覚(さと)らんことは、道心を発()こさずんば協(かな)ふべからず。道心とは、無始より不思議の妙法蓮華経の色心、五輪・五仏の身を持ちながら迷ひける事の悲しきなり。如何(いか)にしても此の旨を能く能く尋ぬべきなり。 

 

(3)  「五輪九字明秘密釈奥書」

1251年・建長31124日、日蓮(30)は京都五条坊門富小路で「五輪九字明秘密釈」(P2875)を書写。

 

同書は、新義真言宗の開祖とされる覚鑁(かくばん・興教大師、1095年・嘉保2年~1143年・康治2)の晩年の著作であり、内容は、大日如来の真言たる五輪五大の諸真言と阿弥陀如来の真言たる九字の真言の語義、その功徳を示したもので、東密と浄土教の融合を説いている。「かなり幼稚で衒学的(げんがくてき)であるとともに、啓蒙的なものであるから、念仏聖ぐらいがその対告衆であったろう。」「これを要するに『五輪九字明秘密釈』は空海著といわれる『無量寿次第』と、『無量儀軌』・『破地獄儀軌』を中心として、観無量寿経・阿弥陀経を傍依として書かれたものであるが、これはあくまで高野山の別所聖のための、理論づけの書であったということができよう」との指摘もある(「増補=高野聖」P113~P114 五来重氏 2009年 角川学芸出版)。

 

日蓮は修学の一環として学んだものか。覚鑁書を見ると、独自に創案した阿弥陀曼荼羅が載せられていることは興味深い胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を組み合わせたようなものであり、中央に観音、阿弥陀、周囲を八大菩薩が囲み、外周に内外の四供養菩薩、四摂菩薩が配置されている。

 

【 清澄山住人肥前公日吽書写本について 】

清澄山住人」の肥前公日吽は建長6年(1254)9月3日付けで、「五輪九字明秘密釈」を書写している。同写本は日蓮が写したものを使用したのではないかと考えられている。

 

「五輪九字明秘密釈」

建長六年(1254)甲寅九月三日未時了

清澄山住人肥前公日吽生年廿七才

為仏法興隆法界衆生成仏道也

(識語編1P222 No747)

 

高木豊氏はこれを以て「日蓮は建長6(1254)93日まで清澄寺を退出していなかったということが導き出される」(日蓮攷P102)とする。この場合、系年、建長5(1253)とされる129日付けの日蓮の初めての書状、「富木殿御返事」(P15)が「日蓮清澄退出建長6(1254)93日以降説」と矛盾するが、「現存する自筆の少ない初期では、建長五年、六年というような細かな区別はつけ難い」()のであり、「(富木殿御返事は)鎌倉進出の初ということになろう」()とし、「建長六年(1254)以降の十二月九日の書状とみることも可能である」()とする。

 

中尾堯氏は、

・法橋長専が建長5(1253)1227日に鎌倉で認め、富木常忍に発した書状を、常忍は30日に受け取っていることが「端裏書き」によって確認される。

・同書文面には「富木入道」とあり、富木常忍が(在俗のまま出家して)入道となったことが初めて窺える文書となっている。

・一方、129日付けの「富木殿御返事」の宛て名は「とき殿」であり、入道していないことから、同書は建長5(1253)かそれ以前の129日に書かれたことになる。

・日蓮は建長3(1251)1124日、京都五条坊門富小路で「五輪九字明秘密釈」を書写しているので、当時はまだ、比叡山留学中であることが明らか。

・建長5(1253)428日の立教以降、日蓮は清澄山をひそかに逃れて身を隠しているが、129日付けの「富木殿御返事」の「ひる()はみぐるしう候へば、よる()まいり候はんと存じ候」との文面に富木氏と日蓮の深い関わりが感じられる。

以上のことから、129日付けの「富木殿御返事」は建長5年とするのが最も妥当、とする。そして建長5(1253)129日頃は、日蓮は下総の国八幡庄(千葉県市川市)に滞留していたとされている。

(以上要旨、要文紙背文書「富木殿御返事」にみる日蓮と富木常忍 「日蓮真蹟遺文と寺院文書」P1 2002年 吉川弘文館)

 

山中喜八氏は「殊に第十六丁目の紙背に『十二月九日 とき殿 日蓮』なる消息一紙が存するが、これを聖筆と断ずるにはさらに考究を要するところがあるようである」(「日蓮聖人真蹟の世界・下P133)としているので、本書は日蓮の側にあった者、弟子による代筆の書の可能性もあるということになる。

 

寺尾英智氏は高木説と中尾説を踏まえて、日蓮が建長6(1254)93日までは清澄寺に在住していたといっても、当時の僧侶は聖教書写、法門の相承、様々な事由により各地を往来しているのだから居所を同寺に固定して考えるべきではなく、「富木殿御返事」が建長5(1253)に推定されるのも可であり、同書によって「日蓮清澄退出建長6(1254)93日以降説」が否定されることはない、とする。

(以上要旨、日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について 「鎌倉仏教の思想と文化」P305 2002年 吉川弘文館)

 

論点としては、建長6(1254)93日付けで「清澄山住人肥前公日吽」が書写した「五輪九字明秘密釈」写本が清澄寺に有ったとしたら、日蓮もそこにいたと断定できるのか否か。五輪九字明秘密釈」写本の置き場所と日蓮の所在は同一でなければならないのか否か。また、建長5(1253)5月頃から建長8(1256)7月頃まで日蓮はどこにいたのか、ということになるかと思う。

 

まず指摘したいのは、日蓮が清澄寺を退出、移動するに当たって、大半以上の文献を所持していく必然性があるのだろうか、ということだ。また、五輪九字明秘密釈」が覚鑁作の重書である故、その管理には慎重を期したと思われるのだが、かといってやはり持ち歩く必要もない。清澄寺には師僧の道善房、法兄の浄顕房、義城房もいるので、日蓮の信頼するに足りる彼らに「大事の書」を預けたとしてもおかしくはないだろう。いずれにしても、日蓮書写本が清澄寺にあるからといって、日蓮がいるとは限らないと思うのだが。

 

下総の国と安房の国は遠からずの距離。また、鎌倉に移動したとしても、当時においても安房と鎌倉を結ぶ航路は往来が頻繁だったようであり、この時の日蓮の行動圏や、各地との相互往来の容易さを踏まえると、日蓮の一部の文献、写本類がそのまま清澄寺に残し置かれた可能性もあると思う。日蓮が後進のために残すことも考えられるのではないか。後に同写本は中山法華経寺に伝来することとなったので、いずれかのタイミングで清澄山より中山に移されたということにはなるが。

 

【 西条花房の僧房 】

           現在の花房 蓮華寺
           現在の花房 蓮華寺

上記までは『清澄寺において』肥前公日吽は日蓮所持の五輪九字明秘密釈を書写したという、『清澄寺で書写』が前提になっていたが、以下ではその前提を外して山上弘道氏の論考「宗祖遺文『念仏者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状』とその周辺」(興風21号 P142)に導かれながら考えてゆこう。

 

建長5(1253)9月、肥前公日吽が書写した「胎蔵界沙汰付小野延命院次第」「金剛界鑁口伝」の奥書。

 

「胎蔵界沙汰付小野延命院次第」

建長五年(1253)癸丑九月十四日未時書了

於長佐郷打墨□ 筆師肥前公法鑁

(識語編2P144 No1583)

 

「金剛界鑁口伝」

建長五年(1253)癸丑九月廿日午時書了

於打墨□筆師肥前公

雖無極悪筆為仏法興隆法界衆生也

法鑁廿六才也

今寂澄

(識語編1P229 No774)

 

胎蔵界沙汰付小野延命院次第」「金剛界鑁口伝」奥書から、西条花房より西2キロの打墨の地が肥前公日吽の活動圏であったこと、また聖教書写を行える僧房などの居住空間のあったことが確認できる。

 

「善無畏三蔵抄」(真蹟推定断簡)に「文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にして見参に入りし時」(P474)とある。日蓮は文永元年(1264)1111日、安房の国東条松原で地頭・東条景信らにより襲撃された後、同月14日、西条花房の僧房で師僧・道善房と会い阿弥陀仏を五体作り念仏に執着する道善房の信仰を破折している。これにより、同地は東条景信が日蓮を追撃して直接手をくだすことのできない地、実効支配の及ばない地であり、日蓮一門にとって、一応は安全の確保された場所であったことがうかがえ、また日蓮有縁の地でもあったことが推される。

 

文永元年(1264)1213日の「南条兵衛七郎殿御書」に「此の十二年が間念仏者無間地獄と申す(P326)とあるように、日蓮の念仏批判は建長5(1253) 春の「法門申しはじめ」の時から展開され、当然、念仏者である地頭・東条景信は激しく反発しただろうから、ほどなくして日蓮は清澄寺を離れ、景信の実効支配地外の西条花房に身を置いたことも考えられる。そして「清澄山」住人である肥前公日吽が、日蓮所持の「五輪九字明秘密釈」を西条花房で書写したという想定も成り立つだろう。

 

ただし、上記、中尾氏の論考を踏まえれば、日蓮の西条花房滞在は建長5(1253)春から秋まで、年末には下総の国八幡庄(千葉県市川市)に滞留となる。もっとも、日蓮の旺盛なる法華勧奨の活動からすれば、「どこに定住したのか」という今日の私達の視点などとは無縁で、下総、安房の往来を重ねていたのではないか。いずれにしろ、寺尾英智氏が「災難退治抄」を引用して推測された()ように、建長8(1256)8月には日蓮は鎌倉に進出している。故に、「日蓮清澄退山建長6(1254)93日以降説」は一つの可能性ということになり、断定はできない、といえるだろう。

 

()日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について 「鎌倉仏教の思想と文化」P306 2002年 吉川弘文館

 

                          鴨川市 打墨付近
                          鴨川市 打墨付近

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