(6)  「唱法華題目抄」

「災難興起由来」「災難対治抄」と同年の「唱法華題目抄」(文応元年[1260]528)では、「仏の遺言に依法不依人と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」(P196)と「依法不依人」を強調しながら、優れたる教えである「了義経」に依るべきであり、劣る教えである「不了義経」に依ってはいけないことを「依了義経・不依不了義経と説かれて候へば愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を弁へざらん程は了義経に付かせ給ひ候へ」()と説示している。

 

次が一代の経典を「了義経」と「不了義経」に立て分ける展開となり、

「阿含小乗経は不了義経、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経」

「四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経」

「涅槃経を法華経に対すれば、法華経は了義経、涅槃経は不了義経」

「大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり」

「故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑み候へ」

としている。

 

文中「大日経は不了義経、法華経は了義経」としているのだから、日蓮はこの時点で「法華真言未分」ではなくなったのか?と考えるところだが、ここに書かれた各経典に対する「了義経」「不了義経」との適用は「法華経・最第一」に導くための導入路、案内的なものであり、教理的解釈として絶対的・固定的になされているものではないと思われる。「唱法華題目抄」前後の遺文を見ると「法華真言並列表記=未分」は変わらずで、該文のような「了義経・不了義経」の適用もされていない。ここでは「了義経・不了義経」を各経典に順次当てはめ次第することによって、釈迦一代説教の経典内での「法華経」の位置を示したもの、「一応の経典区分」を行ったものといえるだろう。注意すべきは、「唱法華題目抄」の該文では諸経劣法華勝を示したものの、この頃の日蓮にとっては劣とした他経典も捨てるべきものではなく、法然浄土教隆盛に対抗する大乗仏教側に位置しており、意識としては顕密仏教側の復興論者としての日蓮だったということだ。当書の中では「阿含小乗経」上座部に対すれば、「華厳・方等・般若・浄土の観経等」の四十余年の経典は「了義経」となっても、今度は法華経に相対させれば「四十余年の諸経は不了義経」となってしまうのだが、約一箇月後の「立正安国論」(P217)では、「仏堂零落して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。然りと雖も各護惜の心を捨てゝ、並びに建立の思ひを廃す。是を以て住持の聖僧行きて帰らず、守護の善神去りて来たること無し。是偏に法然の選択に依るなり」と、法然浄土教が流布したことによる比叡山の荒廃、伝統仏教(四十余年の諸経)の衰微を嘆いている。専修念仏の声が世を覆い、続いて禅宗も隆盛し、法華真言=台密の比叡山への帰依の心が薄くなり、国中の法華真言の学者が棄て置かれて守護の善神が去ってしまったということは、文永5(1268)45日の「安国論御勘由来」(P423 真蹟)にも「然るに御鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり」と記されている。これは文永5(1268)当時の日蓮の思考では、比叡山への帰依の心が薄くなってはいけない。「法華真言の学者」は「棄て置か」れてはいけない、としていたことを意味するものだろう。

 

このように「立正安国論」進呈時の日蓮は顕密仏教側を立ち位置とする「天台宗復興、大乗仏教再興論者」なのであり(それは多分に「諸宗兼学」の比叡山で修学したことにもよると思うが)、安国論に先立つ「唱法華題目抄」での「四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経」との記述は、「法華経・最第一」を鮮明にする為の一過程の表現だったのである。そのことは後文に「法華経を依拠とすべきこと」を繰り返し説くことからも窺えることだろう。

 

法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし。我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人、父母は他人よりも子をあはれむ者、日月は衆星より暗を照らす者、法華経は機に叶はずんば況んや余経は助け難しとおぼしめせ。又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母、此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとゞまれりとおぼしめせ。諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り。而るを当世の学者、法華経をば一切経に勝れたりと讃めて、而も末代の機に叶はずと申すを皆信ずる事豈謗法の人に侍らずや。只一口におぼしめし切らせ給ひ候へ。(P197)

 

次に「涅槃経」に目を移してみよう。

当書で「打ち捨てさせ給ひ」とされた「涅槃経」については、前年の「守護国家論」では以下のように書かれている。

 

「此の如き等の文は、法華涅槃は無量百歳にも絶ゆ可からざる経なり」(P103)

「此の文の如くんば法華涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く、法華涅槃を信ずるは爪上の土の如し」(P120)

「末代に於て真実の善知識有り、所謂法華涅槃是なり」(P123)

「涅槃経に云く『法に依つて人に依らざれ智に依つて識に依らざれ』[已上]依法と云うは法華涅槃の常住の法なり。不依人とは法華涅槃に依らざる人なり。設い仏菩薩為りと雖も、法華涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況や法華涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや」(P124)

「願わくば日本国の道俗選択集の久習を捨てて法華涅槃の現文に依り、肇公慧心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ」(P129)

「法華涅槃に違する人師に於ては用うべからず。依法不依人の金言を抑ぐが故なり」(P134)

 

「涅槃経」と「法華経」は受持すべき法として、セットで「法華涅槃」と記されるのである。ところが翌年の「唱法華題目抄」の文中では「涅槃経=不了義経、法華経=了義経」「涅槃経を打ち捨てさせ給ひて」となっているのだが、他の遺文を確認すれば、法華経と涅槃経を共に強調する日蓮の主張はこの後も続いていくのである。7月の「立正安国論」では、「法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり、其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや」(P223)とある。文永7(1270)1128日、大田金吾に報じた「金吾殿御返事(大師講書)」では、「いたづらに曠野にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をお()ひ、仙予・有徳の名を後代に留めて、法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり」(P459 真蹟)と「法華経・涅槃経」を共に記している。弘安3(1280)12月の「諌暁八幡抄」(P1832 真蹟)では「阿含小乗経は乳味のごとし、方等大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く、華厳経等は熟蘇味の如く、法華・涅槃経等は醍醐味の如し」と「法華涅槃経等」は「醍醐味」とする。

 

「唱法華題目抄」では「涅槃経を打ち捨てさせ給ひて」と記しながら、実際は「法華涅槃の経教は一代五時の肝心なり」「醍醐味」なのである。やはり該文は、「了義経・不了義経」を各経典に順次当てはめ次第させながら「法華経・最第一」に導くための導入路、案内的なものだった、一応の経典区分であり絶対的なものではない、ということになるだろう。大日経・真言についても同じ「唱法華題目抄」の後文で記されており、法然浄土教興隆によって法華真言が衰微していく様を嘆いて「権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留まり、国中に王なきが如く、人の神を失へるが如く、法華・真言の諸の山寺荒れて、諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去れば、悪鬼便りを得て乱れ入り、悪風吹いて五殻も成らしめず、疫病流行して人民をや亡ぼさんずらん」(P199)と亡国に至る事態を憂いている。文中「法華・真言の諸の山寺」が「荒れ」ることによって「諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去」り、代りに「悪鬼便りを得て乱れ入」るとしていることには注目だろう。やはり「法華・真言の諸の山寺」は「荒れ」てはいけないものだったのであり、「法華・真言の諸の山寺」を繁盛させることにより「諸天善神・竜神等一切の聖人」の一国守護の働きも活発化したということなのである。まさに「天台宗・台密の僧」としての視点、思考である。「諸行往生」「四宗兼学」の台密信仰世界は法華経、浄土三部経、大日経、金剛頂経などの様々な経典や律、禅、密教、浄土、法華などの教えのいずれかを学僧が信奉して「第一」としても、他の経典・教えは否定すべきものではなく、共に在るもの即ち「共存」するもの、「諸経包摂世界」ともいうべき信仰だった。日蓮は竜口法難を経て佐渡期までは明確に天台宗・台密に期待する記述をしており、真蹟遺文での東密批判は文永6(1269)の「法門可被申様之事」より、明確なる台密批判開始は文永11(1274)1120「曾谷入道殿御書」であり身延入山以降なのである。これは、日蓮は自らを天台宗信仰圏に在る僧としていたことが認識されるもので、日蓮は「法華経・最第一」を標榜しながらも、少なくとも文永中期までは「法華真言同列」の台密信仰圏から脱するものではなかったことを示している、といえるだろう。

 

繰り返すが、「唱法華題目抄」文中で阿含小乗経、華厳・方等・般若・浄土の観経等=四十余年の諸経、涅槃経、大日経などは法華経に対すれば不了義経となり、諸経典を打ち捨てて、「法華経を師匠と御憑み候へ」としても、その日蓮の思考は「法華真言同列」の台密の中である故、真言を投げ打つものではなかった。「法門申しはじめ」より守備一環変わらぬ「日蓮にとっての法華経・最第一」を鮮明にするために、「法華経以外の他経典は不了義経」としたとはいえ、日蓮の身も思考も更に大きなもの、台密信仰世界に包摂されていたのである。

 

以上、当書全文を読み前後の遺文を踏まえれば、日蓮の「法華真言未分」は変わらないものだったといえるだろう。

 

尚、この年(文応元年[1260])に起きたと伝えられている鎌倉草庵の襲撃は、念仏者の画策が背後にあったようだ。

 

論談敵対御書 定P274 真蹟(弘長2[1262]伊豆での執筆)

論談敵対の時、二口三口に及ばず、一言二言を以て退屈せしめ了んぬ。所謂善光寺道阿弥陀仏・長安寺能安等是なり。其の後は唯悪口を加へ、無知の道俗を相語らひ、留難を作さしむ。或は国々の地頭等を語らひ、或は事を権門に寄せ、或は昼夜に私宅を打ち、或は杖木を加へ、或は刀杖に及び、或は貴人に向かって謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者等の狂言を云ふこと其の数を知らず。終に去年五月十二日戌(いぬ)時、念仏者並びに塗師・冠師・雑人等

 

日蓮は鎌倉における浄土教の代表、道阿道教・長安寺能安らと対論を行い、わずかな言葉で以て論破した。教理でかなわないと見た彼らは悪口を重ね、日蓮の弟子檀越にも迫害を加える。遂には権力者に「日蓮らは謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者である」などと讒言する。そして念仏者らにより、512日になんらかの害が加えられたことを思わせるところで文章は途切れている。

 

【 同時期の「断簡57」と「一代五時図」 】

 

正嘉3年・正元元年(1259)の「守護国家論」と、正元2年・文応元年(1260)の「唱法華題目抄」の頃、即ち「正元の頃」(1259年、1260年頃、昭和定本による。但し平成校定は「文永初期」とする)に系年される「断簡57(真蹟)には以下のように書かれている。

 

後八年の大法法華・涅槃・大日経等をば通じて入れて上品上生の往生の業とするだにも不思議なるに、あまさえ称名念仏に対して法華経等の読誦は無間等の往生也なんど申して日本国中の上下万人を五十余年が程、謗法の者となして無間大城に堕しぬる罪はいくら程とかをぼす。(P2499・校P2678)

 

ここでは、浄土教徒が釈迦一代教説中の第五「法華涅槃部」の経典である「法華経・涅槃経・大日経」を指して「上品上生の往生の業である」とするのは不思議なことであるのに、更に「称名念仏に対すれば法華経等の読誦では往生できない」と説教して、日本国中の上下万人を五十余年に亘り謗法者にしてしまい、結果それらの人々を無間大城へと堕した大罪はいか程であろうか、と念仏を破折している。文中、「後八年の大法法華・涅槃・大日経等」と記すところから、正元から文永初期の日蓮は大日経・真言経典を釈迦一代教説・五時の最後、「法華涅槃部の経典」と位置付けていたことが窺える。これは台密の義に則した経典分類であり、日蓮はそれを継承していた。しかし一方では、昭和定本によれば系年、正元2年・文応元年(1260年、ただし平成校定は文永8年・1271年とする)の「一代五時図」(真蹟)には「方等金剛頂経・大日経・蘇悉地経真言宗」(P2282)とあって真言経典は方等部に置かれている。 となると、日蓮は同じ頃に真言経典の位置付けを、第三「方等部」、第五「法華涅槃部」としていることになり大変な矛盾である。ここで「一代五時図」の系年を「平成校定」の「文永8年(1271)」や、他の見解のように「筆跡からすれば文応ではなく文永年間」と位置付ければ、「日蓮は『法門申しはじめ』より文永初期までは大日経・真言経典を第五の法華涅槃部に位置付けていたのだが、文永中期、即ち5年(1268)の蒙古牒状到来の頃に至って再定義して真言経典を方等部とした」との説が成立することになる。であれば矛盾は解消され、話としては整理がついてすっきりしてしまうのだろうが、ここではあえてそれはせずに、「一代五時図」の系年は正元2年・文応元年(1260)のままで考えてみよう。私としては、むしろ、このような、一見、矛盾しているような表記に後の「人法本尊併存」に象徴される、「日蓮的な両義併存」というものが感じられるのではないかと思うのだ。

 

日蓮以前、台密では「釈迦一代教説中の大日経の位置付け」について、円仁、円珍に至って明確化されている。第5代天台座主・智証大師円珍は仁寿3(853)の入唐前(852年の秋)に「大毘蘆遮那経指帰(大日経指帰)」を著して、唐の天台山の広修(こうしゅ、771年~843)・維鷁(いけん)から「大日経は方等部である」との教示を受けている()とするも、その説を批判。円珍は大日経は一大円教であり法華経も及ばずとし、第五「法華涅槃時」を初善法華・中善涅槃・後善大日と三つに分類して、法華経・大日経共に最勝の教えなのだが諸経は大日経に帰伏する旨を教示している。

 

 大毘蘆遮那経指帰

国会図書館・近代デジタルライブラリー 「智証大師全集・中巻」(19181919年 園城寺事務所)

 

以降、五大院安然により台密が大成される頃には「大日経は法華・涅槃部に属するもの」との教理解釈が定着する。当然、日蓮はこれらの経緯を知っていたことだろう。系年・建治2(1276)の「一代五時鶏図」(真蹟)に「方等部―大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻―真言宗」(P2335)と記し、続いて真言三部経の位置付けについて「或は云く方等部。或は云く華厳部。或は云く般若部。或は云く法華部。或は云く涅槃経部。或は一代諸経の外」()と諸説あることを記述している。彼も比叡山で学習した僧として、伝統的な「後八年の大法法華・涅槃・大日経等」との解釈を継承して遺文(断簡57)に記した。そして一方では、弟子等への講義では中国天台の人師の教示「方等金剛頂経・大日経・蘇悉地経真言宗」を「一代五時図」(P2282)に記しもしたのではないか。更に他方では、「守護国家論」などに見られる「法華真言未分」の記述も多い。これらを総合すれば、日蓮は「法門申しはじめ」から文永中期までは法華経と真言は同等「法華真言未分」なのだが、真言経典の釈迦一代教説中での順序、位置付けというものについては一様ではなく、矛盾する記述、講説もした「両説併存」であった。これは彼の思考も彼の教説も、大きく諸経・諸説を包み込んでしまう台密信仰世界に包摂されていたことによる故ではないかと考えるのだ。即ち、正元から文永中期の頃は、日蓮の思考では経典の位置付けについて両説を併存させていたが、それは「真言経典をどこに位置付けるか」というものであって、真言経典の内実と法華経を分け隔てるものではなかった(=法華真言未分)と思われるのである。日蓮の文の表だけを見るのではなく、日蓮が自らを置いた台密信仰世界へ分け入ることによって、彼の記述上の矛盾・不整合の意味が理解されるのではないかと思う。

 

() 広修と維鷁の答書を「平城遷都1300年記念・大遣唐使展」で見る。[奈良国立博物館20104/36/20]

第七部ドキュメント遣唐使<第三期=9世紀>

NO250唐決 広修和尚答(青蓮院吉水蔵聖教類)

NO251唐決 維鷁和尚答(青蓮院吉水蔵聖教類)

  

【 諸宗融和の台密信仰 】

             比叡山 西塔・にない堂
             比叡山 西塔・にない堂

「諸宗融和」の台密信仰圏がどのようなものであったか、建治2(1276年、または文永12年・1275年)111日の「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)には「真言宗が影の身に随ふがごとく、山々寺々ごとに法華宗に真言宗をあひそひて、如法の法華経に十八道をそへ、懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に」(P1133)と記している。

 

※如法=如法経。特定の方式により主に法華経を写経すること。

 

※十八道=密教の行法で、十八種の印契を用い修する。

 

※懺法=法華懺法のことで法華三昧ともいう。法華経読誦により自己の罪障を懺悔する、真理に悟入する修法。平安時代末期の比叡山では法華三昧堂で法華懺法を行い、常行三昧堂では念仏が行われ、ともに盛んであった。

 

※潅頂=密教では、師匠が弟子の頭に水を灌ぎかけることにより仏位を継承させたことを示す儀式。様々な分類、作法がある。

 

「開目抄」(真蹟曽存)には「法華経と大日経はその体同一」「西方浄土を志して法華と念仏を受持」する等、諸経随伴が一般的だった当時の法華持経者の見解を記している。

「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。」(P549)

 

また、「南条兵衛七郎殿御書」(文永元年[1264]1213日 真蹟断片)では日本国に天台・真言が広まって比丘・比丘尼・優婆塞(在家の男)・優婆夷(在家の女)の四衆は皆、法華経の機と定まっていた。善人も悪人も、有智・無智の者も皆法華経の五十展転の功徳を備えていたのに、この五十余年に法然の教えと浄土教の流布に依って一切衆生が惑わされ法華経を捨ててしまった、としている。同書の文永元年[1264]12月の時点でも、日蓮は過去を振り返って法華真言の隆盛は法華経の機であったとして肯定的に記述し、その当時の功徳を説いているのである。

 

而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆皆法華経の機と定まりぬ。善人悪人・有智無智、皆五十展転の功徳をそなふ。たとへば崑崙山に石なく、蓬莱山に毒のなきが如し。而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり。(P325)

 

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