(7)  「善無畏抄」

文永3(1266)「善無畏抄」(真蹟)に到って、中国密教の善無畏を挙げて「理同事勝」について「此の法門第一の誤り、謗法の根本なり」(P409)「天台妙楽の心は、法華経に勝れたる経有りと云はむ人は無間地獄に堕つべしと書かれたり。善無畏三蔵は、法華経と大日経とは理は同じけれども事の印真言は勝れたりと書かれたり。然るに二人の中に一人は必ず悪道に堕つべしとをぼふる処に、天台の釈は経文に分明なり、善無畏の釈は経文に其の証拠見へず」(P410)と批判する。しかし、日本の台密に対する批判は見られない。

 

系年については、「境妙庵目録」「日明目録」「昭和定本」は文永3(1266)、「日諦目録」「高祖遺文録」「縮刷遺文」は建治元年(1275)、「御真蹟対照録」は文永7(1270)とし、「刊本録内」には年次の記載がない。「日蓮聖人遺文の文献学的研究」(鈴木一成氏)は文永3(1266)とする。建治年間には、「大田入道殿御返事」(建治元年[1275]113日 定P1117 真蹟)に「是に知んぬ、釈尊・大日の本意は限って法華最上に在り。而るに本朝真言の元祖たる法(弘法)・覚(慈覚)・証(智証)等の三大師入唐の時、畏(善無畏)・智(金剛智)・空(不空)等の三三蔵の誑惑を、果(恵果)・全等に相承して帰朝し了んぬ」とあるように、密教を批判する時は弘法大師空海・慈覚大師円仁・智証大師円珍等の名が挙げられるようになっており、「善無畏抄」にはこれら諸師への批判がないことから、建治元年(1275)の系年は不可ではないか。であれば、本書は文永3(1266)から7(1270)頃にかけての書ということになるだろう。

 

【 釈迦牟尼仏を本尊 】

文中、「今の世に浄土宗・禅宗なんど申す宗々は、天台宗にをとされし真言・華厳等に及ふべからず。依経既に楞伽(りょうが)経・観経等なり。此等の経々は仏の出世の本意にも非ず、一時一会の小経なり。一代聖教を判ずるに及ばず」(P412)と浄土教、禅宗を批判しながら「かゝる謗法の人師共を信じて後生を願ふ人々は無間地獄脱るべきや。然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり」()としていることには注目すべきだろう。文永3(1266)当時の日蓮の法門は、信じるべきは「法華経」、本尊として礼拝するべきは「釈迦牟尼仏」であり仏もまた同じだったのである。釈迦を仏として尊信し、本尊とする教示は同時期の文永7(1270)に系年され、故郷・清澄山の浄顕房、義浄房に宛てた「善無畏三蔵抄(師恩報酬抄)(真蹟推定断簡)にもある。

 

◇我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の裟婆無仏の世の最先に出でさせ給ひて、一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり。東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教へなるべし。(P466)

 

◇此の釈迦如来は三の故ましまして、他仏にかはらせ給ひて裟婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ。(P466)

 

◇而れば此の土の一切衆生生死を厭ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。

(P469)

 

◇我等が父母世尊は主師親の三徳を備へて、一切の仏に擯出せられたる我等を「唯我一人能為救護」とはげませ給ふ。其の恩大海よりも深し、其の恩大地よりも厚し、其の恩虚空よりも広し。

(P470)

 

◇日本国の一切衆生も亦復是くの如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を書き造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。(P476)

 

文永8(1271)の平左衛門尉らによる鎌倉草庵での日蓮逮捕の際、そこに安置されていたのは釈迦像だった。

 

「神国王御書」(P892 真蹟)

此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使ひとして世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。

 

文応元年(1260)の「唱法華題目抄」には、「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)とあり、鎌倉に草庵を構えた頃には既に紙本墨書の南無妙法蓮華経、法華経の経巻を中央に置き、釈迦像・多宝仏像・諸仏の像を安置していたこと。そして後の弘長期(1261年~1263)の伊豆配流以降は立像釈迦を所持。続いて、文永年間(1264年~)に入ってからも釈迦像を本尊としていたことが上記遺文により窺える。

 

【 天台大師講 】

このように建長5(1253)の「法門申しはじめ」から鎌倉に居を構えて以降、文永年間を通して日蓮の草庵には釈迦像が安置されていた。そこでは大師講が行われ、多くの弟子檀越が釈迦像に向かって法華経を読誦し題目を唱えたことだろう。もちろん、天台大師智顗への報恩の大師講である故、そこには智顗の木像または画像も安置されたことだろう。(「弁殿尼御前御書」の「大師とてまいらせて候」[P752]は大師像を持つように指示したものか)

 

◇「富木殿御消息」(P440  文永6[1269]67日 真蹟)

大師講の事。今月は明性房にて候が、此の月はさしあい候。余人の中せんと候人候はゞ申させ給へと候。貴辺如何仰せを蒙り候はん。

 

◇「金吾殿御返事(大師講書)(P458 文永7[1270]1128日 真蹟 下総の太田金吾に報じたもの)

大師講に鵞目(がもく)五連給()び候ひ了んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。

 

◇「弁殿尼御前御書」(P752、 文永10[1273]919日 真蹟)

しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。

大師とてまいらせて候。三郎左衛門尉殿に候文(ふみ)のなかに、涅槃経の後分(ごぶん)二巻、文句五の本末、授決集(じゅけつしゅう)の抄の上巻等、御随身あるべし。

 

日蓮は流刑地の佐渡からも鎌倉の日昭に大師講を行うよう指示しており、文永8(1271)の竜口法難前には法華経への信仰結縁、門徒の信仰増進の場として、法難以降は壊滅状態となった鎌倉日蓮門徒再建の軸として、大師講が営まれたのではないだろうか。

 

【 四条金吾夫妻の釈迦像・曼荼羅 】

文永7(1270)1128日の「金吾殿御返事」(真蹟)に、「此の大師講三・四年に始めて候」(P458)とあるところから、文永3(1266)4(1267)頃に始まったと理解される大師講では釈迦像を本尊とし、経典を安置して多くの弟子檀越が法華経を読み題目を唱え、鎌倉の民衆も結縁していたと思われる。文永8(1271)以降、日蓮は曼荼羅を顕して特に建治年間に入ってからは多くの門徒に授与した。しかし、一門徒にとっては自身が法華経信仰の門を叩き、初めて拝した本尊=釈迦像への信仰、帰依の心というものは、曼荼羅の登場以降も衰えることはなかったであろうし、日蓮も「どちらかにせよ」等、一方に切り替えることなどは説示、要求していないのである。以下の四条金吾夫妻に見られるように、曼荼羅と釈迦像を共に安置した門徒は他にも少なからずいたのではないだろうか。

 

◇建治2(1276)715四條金吾釈迦仏供養事」(真蹟曽存・真蹟断簡)

「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。開眼の事、普賢経に云はく『此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり』等云云。又云はく『此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に因って五眼を具することを得たまへり』云云」(P1182)

「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。」(P1183)

「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし。」(P1184)

日蓮は四条金吾による釈迦仏造立の意義、画像・木像の仏の開眼について教示。

 

◇弘安2(1279)22日「日眼女釈迦仏供養事」(真蹟曽存 )

「御守り書きてまいらせ候。三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女。御供養の御布施、前に二貫今一貫云云。」(P1623)

「法華経に云はく『若し人仏の為の故に諸の形像を建立す。是くの如き諸人等皆已(すで)に仏道を成じき』云云。文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべしと申す文なり」(P1624)

「今日眼女は今生の祈りのやう()なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとを()ぼしめすべし」(P1625)

日蓮は金吾夫人へ守り曼荼羅を授与し、夫人の釈迦仏造立を讃嘆。

 

◇弘安3(1280)21日、日蓮は曼荼羅(71)を図顕し「俗日頼(四条頼基)」に授与。

 

◇弘安3(1280)2月、日蓮は曼荼羅(72)を図顕し「日眼女(四条頼基妻)」に授与。

 

建治2(1276)715日、四条金吾は釈迦木像を造立した。日蓮は釈迦像の開眼については「法華経・天台宗にかぎる」として、さすれば「此の仏こそ生身の仏」であり、守護の働きをなすとする。釈迦木像一体でも法華経・天台宗による開眼を行うならば、それは「生身の釈迦」であり、行者守護の力有があるとしているのである。金吾は夫妻で釈迦木像を拝したことだろう。約二年半後の弘安2(1279)22日、金吾夫人も釈迦像を造立。夫人は日蓮の讃嘆の書状と共に、守り曼荼羅を授与される。四条家に二体の釈迦像、一幅の守り曼荼羅となる。翌弘安3(1280)21日、四条金吾は曼荼羅を授与され、同月に夫人も曼荼羅を頂く。以上、四条家には釈迦木像二体、曼荼羅二幅、守り曼荼羅一幅となるのである。これをどのように奉安したのだろうか。「唱法華題目抄」には「又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。」とあるので、曼荼羅を中央に奉掲して左右どちらかに釈迦像を安置したことだろう。

 

日蓮は弘安元年(1278)9月の「本尊問答抄」では「法華経の題目を以て本尊とすべし」「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」として「法勝人劣」的教示をしたものの、この書は清澄山の浄顕房に宛てたものだった故に、それは門徒全般に周知されたものではなかった。また「本尊問答抄」だけに説示したということは、教団の弟子檀越皆にまで周知徹底する意思はなかったということにもなるだろう。結論的に記せば、日蓮は台密信仰に包摂された「諸宗融和という天台的思考」をもとにした本尊観であり、「人法並列」というものだった。(このことは後に確認したい⇒「本尊問答抄一考)

 

日蓮は身延入山以降、大変な勢いで曼荼羅を図顕したものの、「曼荼羅だけを本尊としなければならない」とは教団全体には教えなかったし、「釈迦像を本尊としなければならない」ともしなかった。このようなところに、日蓮亡き後、日興が特に固執した「本尊問題」(それは他の本弟子五人は特に問題視しなかったのだが、日興は五人との相違を際立たせるために殊更に強調したものであろうか)が起こる因があったようにも思うのである。

 

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