(8)  「安国論御勘由来」

文永5(1268)「安国論御勘由来」(真蹟 定P423)では、異国・蒙古調伏につき、天台宗法華宗に対する期待も見られる。

 

日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。譬へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん。但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず

 

と蒙古侵略という未曽有の国難に対処し、真に異国を退治できるのは比叡山を除けば日蓮しかいない、としている。

 

前後するが、「勘文一通を造り作し其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付し故最明寺入道殿に奏進し了んぬ」(P422)と、「立正安国論」を北条時頼に進呈するに至った動機として、日蓮は本書冒頭に以下のように記す。

 

正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年戊午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈有り。爾りと雖も一分の験も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還りて凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ。(P421)

 

大地震、大風、飢饉、疫病という幕府高官から民衆に至るまで、万民に等しく襲いかかる天災地変、目に見えない恐怖・疫病の流行により人の死というものが日常化している世にあって、日蓮はその災難由来の根本原因は何かを究明したところ、「法然房源空の専修念仏の教えと念仏の哀音が世を覆い、禅宗にも帰依の人が増えた結果、比叡山・天台宗への帰依が薄らぎ国中の法華真言の学者が棄て置かれて、国中守護の諸大善神が法味に飢えて威光を失い、国土を捨て去り、替わりに悪鬼が国土に入った故の災難であり、このような国土の衰亡は他国侵逼難の先相である」と結論する。

 

それを当書には、

然るに御鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり(P423)

と記している。

 

そして「立正安国論」を進呈したのだが、権力者から返ってきた答えは無視黙殺であった。

 

尚、前にも書いたが比叡山の衰微を嘆く中で「法華真言の学者棄て置かせられ」とあるのは「法華真言の学者は棄て置かれてはいけない」という意であろうし、文永5(1268)当時、日蓮は「法華真言同列」の天台宗・台密の僧としての意識を有していたことが窺われるのである。

 

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