(9) 「法門可被申様之事」

日蓮は、文永6(1269)とされる「法門可被申様之事(ほうもんもうさるべきようのこと)(真蹟)の後半部分で真言批判を展開する。現存真蹟遺文では、本書が東密批判の事始めとなる。(東密を批判している「顕謗法抄」[真蹟曽存]の系年は文永年間、特に佐渡期と考えられる)

 

真言宗の漢土に弘まる始めは、天台の一念三千を盗み取りて真言の教相と定めて理の本とし、枝葉たる印・真言を宗と立て、宗として天台宗を立て下す条謗法の根源たるか。

又華厳・法相・三論も天台宗日本になかりし時は謗法ともしられざりしが、伝教大師円宗を勘へいだし給ひて後、謗法の宗ともしられたりしなり。当世真言等の七宗の者しかしながら謗法なれば、大事の御いのり叶ふべしともをぼへず。天台宗の人々は我が宗は正なれども、邪なる他宗と同ずれば我が宗の正をもしらぬ者なるべし。譬へば東に迷ふ者は対当の西に迷ひ、東西に迷ふゆへに十方に迷ふなるべし。(P449)

 

漢土(中国)における真言宗の「理同事勝」を謗法の根源として、日本の天台宗も「正であるのに邪なる他宗教と与同していけば自宗の正をも知らぬ者となってしまう」と批判する。

 

更に続けて、

叡山の真言宗は天台円頓の戒をうく、全く真言宗の戒なし。されば天台宗の円頓戒にをちたる真言宗なり等申すべし。而るに座主等の高僧、名を天台宗にかりて、一向真言宗によて法華宗をさ()ぐるゆへに、叡山皆謗法になりて御いのりにしるし()なきか。(P451)

中略

仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失するゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈しるし()なし。御祈請しるし()なければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。(P453)

 

比叡山は名は天台宗ではあるものの密教を重んじて法華経を下しているが故に、祈りの効験が失せてしまっている。比叡山の正法が滅した為に異国から滅ぼされようとしていると批判。それでも仏法が滅するか否かは、比叡山に懸かっているとして期待を寄せる。最後に「日蓮房の申し候、仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし」と日蓮が言うには仏菩薩、諸大善神を日本国に還らせるには特別な術などはいらないとして、「禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいましめ」禅宗・念仏宗を禁断し、寺を全てなくし、僧を誡めて「叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつ」ること、即ち衰亡した比叡山に講堂を造り山門の復興を成し遂げ、釈迦牟尼仏の御魂を比叡山に請じ入れて、それを仏法の本として国難に対処するしかないのであるとする。

それが成さなければ、「諸神もかへり給ふべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたし」諸天善神は還ることなく、諸仏も日本国を守護することは難しいのであると教示して本書を終わっている。これにより、文応元年(1260)「立正安国論」に見られた比叡山復興への意志を、9年後の文永6(1269)も変わらずに抱き続けたことが理解されるのである。

当時は蒙古国からの国書到来で世情は騒然とし、9年間に亘り「今日の事態来るは必定」と訴えていたのは日蓮だけであり、故に近き未来に起こる未曽有の国難対処の術を心得ているのも、「我れ一人のみ」との気概に満ちていたのであろうか。そして「もはや仏法正統であるべき比叡山は頼りになるのか否か。心もとない状況である。ここに至っては比叡山三千の大衆はさておき、今、眼前の危機に『法力』を以て立ち向かうのは日蓮しかいない」このような日蓮の信仰心の高揚、日本国救済の当事者としての自覚の高まりが、徐々に東密より台密の批判へとシフトしていくのではないだろうか。

 

本書冒頭、問答の心得として、「法門申さるべきやう。選択をばうちをきて、先づ法華経の第二の巻の今此三界の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了るべし。何れの仏か我等が父母にてはをはします。(中略)釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。」(P443)と法門を論ずるにあたって法然の「選択本願念仏集」については一応置いておき、法華経譬喩品第三の「今此三界の文」を経証として、釈尊が末法の衆生の「三徳を備へたる親」であると説くべきことを教示している。

そして、「教と申すは師親のをしえ、詔と申すは主上の詔勅なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつらず、又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつらざるは、三徳を備へたる親父の仰せを用ひざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。」(P445)と釈尊が「閻浮第一の賢王・聖師・賢父」であり即ち「主師親の三徳」を備えており、方便の教えたる爾前権教に依って法華経に移らない、また法華経を受持しても方便の教えを捨て切らない人々は「三徳を備へたる親父の仰せ」を用いない人々であり、「天地の中」に住むべき者ではないと説く。

続いて「この不孝の人の住処を」(P445・以下同)それら法華経不信の人々が赴くところは、「経の次下に定めて云はく『若し人信ぜず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』等云云」即ち法華経譬喩品第三に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん(中略) 其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と定められているとして、「設ひ法華経をそしらずとも、うつり付かざらむ人々、不孝の失疑ひなかるべし。不孝の者は又悪道疑ひなし。故に仏は『入阿鼻獄』と定め給ひぬ」とたとえ法華経を謗らなくても移り付かない人は不孝の失となることは疑いない、不孝の者が悪道に堕ちることも疑いない、と厳しい説示をしている。

これは釈迦を「賢王・聖師・賢父」と尊信し、法華経に依り成仏得道を期すべきが「正しい信心」であることを教示したものといえるだろう。後には「此の国は釈迦如来の御所領」(P447)ともある。

 

一方では、「わ御房」が朝廷に仕えるある人物(高位の公卿か)の持仏堂に招かれて、法門を講じたことを「面目である」と報告したことに対して、日蓮は「一閻浮提にありがたき法門」を弘法する僧なのだから、相手がたとえ「等覚の菩薩」でも何らはばかるものはないとして、以下、「わ御房」に法華経を下すなかれ、自己を忘却して「京なめり」京言葉を得意げに使うのではなく、「言をば但いなかことばにてあるべし」と教戒しているが、その一節に日蓮は仏教を基軸にした日本国の国主観ともいえる説示をしている。

 

又、御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかゝれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まぼり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島は四州の輪王の所従にも及ばず、但島の長なるべし。(P448)

 

(  四州とは古代インドの世界観であり、須弥山の四方の海中にある四大州()のこと。東勝身州、南贍部(なんせんぶ)州、西牛貨(さいごけ)州、北倶盧(ほっくる)州の四大州。私達の住所は南贍部州=閻浮提とされる  )

 

ここでは、

釈迦如来 > 大梵天王・帝釈天王=釈尊の領地を預かり正法を弘める僧を供養する > 毘沙門天、持国天、広目天、増長天の四天王=四天下の主=大梵天王・帝釈天王の門番 > 四州の王等=毘沙門天王が所従(家来) > 四州の転輪王の所従(家来) > 日本秋津島の国主等=但島の長

との関係になっている。

日蓮の説示では、仏=釈迦が「閻浮第一の賢王・聖師・賢父」「三徳を備へたる親父」であり、此の国=日本国は「釈迦如来の御所領」となる。故に日本国の最高権力者といえども、仏に対すれば遥かに下位になって「但島の長」となるのである。ということは、前(10「安国論御勘由来」)で見たように、日本国の国主が釈迦如来像に合掌礼拝、妙法を唱えるというものは、宗教世界の真の国主・領主に対して娑婆世界の国主・領主が礼を以て接する姿ともなるのであり、至極当然なものと考えられのである。

 

日蓮の遺文に直接的に明示されているわけではないが、上記のような種々の教示を勘案していくと、日蓮にとっては可視的世界の力関係よりも不可視的世界の力が優先していたのであり、日蓮は絶えず「立正安国論」に示した日本と世界の関係、その動向を気にかけていたことを踏まえれば、彼は日本国の国主が浄土教を禁断、比叡山復興に尽力して釈迦如来のもとへ立ち還ることを念願していた、その具体的な顕れとして釈迦如来像に帰命する国主の姿を思い描いていたと考えられるのではないだろうか。そこに後世の門下(特に富士門流)が「広宣流布の時・国主帰依の時に仏像造立(それは久遠実成の釈迦像または十界曼荼羅の諸尊の造像など)」と主張する淵源があるように思う。師日蓮滅後、門流間また門流内でも「日蓮の意とする本尊」をめぐって論争が繰り広げられてきたのも、その因は、「観心本尊抄」の「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか(P713)、「報恩抄」の「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(P1248)等の師の記述だけではなく、師の一代を俯瞰した門流導師の理解にもあると思われるのである。

 

「法門可被申様之事」は京都に遊学していた三位房に報じたものとされているが(「日蓮聖人遺文辞典」P1019)、実際は三位房と特定できる記述はなく、文中に「わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。」(P448)とあるのみで、正確には「わ御房」に宛てたものということになるだろうか。「境妙庵目録」が「三位公日行」となっており、以来そのまま伝えられたものか。「日諦目録」「高祖遺文録」では「日進宛」としている。

 

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